<東京大空襲 体験者の証言>「不幸があったら、子どもはお願いします」 父が残した1枚のはがき

2022年3月16日 06時00分

<連載>封印されたビデオ 第1回

 東京大空襲など戦争体験の記録として、東京都が300人以上の都民の証言を収録したビデオテープが四半世紀に渡り未公開のままになっている。本紙は非公開の証言者や遺族らを探し、貴重な証言を紹介している。昨年9月の連載以降にみつかった新たな証言者や空襲の記憶を継承しようと活動している人たちを4回にわたって紹介する。(井上靖史)

 東京大空襲などの証言ビデオ 10万人が犠牲になった1945年3月10日の東京大空襲をはじめ、戦争被害の実態を後世に伝えようと東京都は1990年代後半、体験者330人の証言を1億円の公費を充ててビデオに収録した。当時、建設が計画された東京都平和祈念館(仮称)で公開される予定だったが、展示内容や歴史認識で都議会が紛糾。祈念館の計画は99年に凍結された。ビデオは9人分を除き、公開されないまま都内の倉庫に保管されている。証言した人が誰なのかも非公開となっている。

臺さんの証言を収録したビデオ画面

 「優しかったお父さん、お母さん。どうして私一人を置いて死んでしまったのでしょうか」
 両親ときょうだい2人を東京大空襲で亡くした埼玉県久喜市の元教諭、うてなスミ子さん(86)は、未公開のままになっている証言ビデオテープの中で声を詰まらせていた。

臺さんの証言を収録したビデオ画面

 2月、取材に応じた臺さんの話は1枚のはがきから始まった。

◆新潟に疎開、次々に家族の訃報

 「もし不幸があった場合、子どもはお願いします。後日お笑い草になる事を念じつつお願いします。さらば皆さま、御身御大切に」。空襲の4カ月前、父が茨城県に住む伯父夫婦に宛てたはがきの文面だ。お笑い草にはならず、父の予感は的中した。
 現在の東京都江東区猿江でガラス店を営む父と母、2人の兄、姉と6人で暮らしていた。戦局の悪化により、東川とうせん国民学校3年生の臺さんは、3つ上の次兄と新潟県旧亀田町の寺へ疎開した。11歳上の長兄は出征していた。
 5月ごろ、疎開先の先生から「ご家族の連絡が取れない」と言われた。「うそでしょ」と思った。その後、親ではなく、伯父から衣類など生活に必要な物資が届くようになった。次兄は、空襲の10日前に卒業式に出るため実家に帰っていた。長兄は6月に沖縄で戦死し、家族は誰もいなくなった。

◆父の形見と対面 「子どものことをどれだけ…」

 終戦後、伯父に引き取られ、「厳しくも優しく」育てられた。埼玉大に進学。小学校教員となった。
 25歳ごろ、伯父が空襲の後に臺さんの疎開先とやりとりした手紙や、両親の形見などを渡された。その中に父が書いたはがきがあった。
 「はがきを書いたころ、空襲が激しくなっていたんでしょうね。残される子どものことをどんなに思っていたか」。臺さんは記者の前で言葉を詰まらせた。

かつて暮らした都心方面の空を見つめる臺スミ子さん。「子どもはお願いします」。そう書かれた父の葉書を見ては泣いたという=埼玉県久喜市で

 10歳の時に亡くした母と夢で会うことができても、いつも置いてきぼりにされる悲しい場面だ。
 一緒に出掛けようと、先に出た母を追い掛けるが、げたの鼻緒が切れて追いつかない。一緒に見に行ったことがある隅田川の勝鬨橋。船を通過させるため真ん中が割れて跳ね上がり、傾いた橋を母はすたすたと歩いて行ってしまう―。

◆ビデオ公開されないまま「もったいない」

 はがきは都に寄贈した。時折、展示会に出品されている。だが体験を語ったビデオは公開されないまま。はがきの内容は説明しなければ状況がはっきり伝わらない。「もったいない。残念なことです」

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