<東京大空襲 体験者の証言>亡くなった方掘り出し…「無我夢中で何とも思わなかった」 家族も知らない父のつらい戦争体験

2022年3月17日 06時00分

<連載>封印されたビデオ 第2回

 「家族も聞いたことがない話ばかりだ」。東京都西東京市の農家、内田繁勝さん(67)は父、亀三郎さんの生々しい証言に衝撃を受けた。2007年、79歳で亡くなった父は1990年代後半、都の依頼で戦争体験の収録に応じた。未公開の映像を見せてもらった。

亀三郎さんが保管していたビデオの画面。中島飛行機武蔵製作所で働いた体験の証言などが収録されている

◆米軍の標的・中島飛行機武蔵製作所で働いて

 「敵機が来そうな時は大体分かった。浅く穴を掘って、軍がコールタールみたいなのを持ってきて火を付けた。ものすごく煙が出る。煙幕みたいに、いっぺんにたく。会社を敵機から守るためだった。すると1時間後ぐらいに大体、警報が鳴った」。テレビ画面に映し出された亀三郎さんは17〜18歳ごろの体験を、興奮した様子で語り続ける。
 亀三郎さんは両親と祖父母、6人のきょうだいで農業をしながら、現在の武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所で物を運ぶ雑役をしていた。旧海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)などのエンジンを生産した巨大軍需工場。米軍の攻撃目標になっていた。
 警戒警報は3秒おきに「ウー」と10回。空襲が始まるとサイレンが鳴りっぱなしになったという。防空ごうは従業員の人数分は用意されていなかった。

◆従業員寮も被害に

 「従業員は防空壕に入り切らない。どこにでも行きなさい、警報が解除されたら帰ってきなさいという方針だった。統制が取れているような、ないような。上司もそこまで目配りできていなかった」
 従業員寮も被害に遭った。「駆けつけて亡くなった方々を片付けた。死んだ人をアパートの下から掘り出したが、無我夢中で何とも思わなかった」。東伏見稲荷神社の東側に遺体を集めて置いた。「すごい人数(の遺体)だった。臨時の焼き場だったと戦後に聞いた」
 戦争は農業にも影を落とした。「サツマイモやバレイショを作るよう半強制的に作物の割り当てをされた。ものすごく厳しい検査があり、収量があろうがなかろうが出しなさいと。検査員の役人が来て本当に収穫がないか家宅捜索を受けた家もあった」

◆収録で開いた重い口「体験引き継いでほしかったのでは」

東京都が収録したビデオテープや内田亀三郎さんの生前写真を手に「テープを活用してほしい」と話す息子の繁勝さん=東京都西東京市で

 繁勝さんは「家族にもあまり話してこなかったのはつらい体験だったからだと思う。そんな父が戦時中のことを聞かれて答えたのは収録が初めてだったのではないか。自身の体験を残して、引き継いでほしいという思いがあったからでは」と推察する。
 都には期待している。「戦争の怖さが伝わりにくくなっているように感じる。多くの人に見てもらえるよう、公開してほしい」(井上靖史)
  ◇
 1945年3月10日の東京大空襲など戦争の記憶を継承しようと、東京都が約300人の体験者の証言を収録したビデオテープが4半世紀公開されず、倉庫で眠っている。連載では、ビデオ収録に応じた人やその遺族、空襲の記録を残す活動をしている4人を通じ、公開の必要性を考える。

 東京大空襲などの証言ビデオ 10万人が犠牲になった1945年3月10日の東京大空襲をはじめ、戦争被害の実態を後世に伝えようと東京都は1990年代後半、体験者330人の証言を1億円の公費を充ててビデオに収録した。当時、建設が計画された東京都平和祈念館(仮称)で公開される予定だったが、展示内容や歴史認識で都議会が紛糾。祈念館の計画は99年に凍結された。ビデオは9人分を除き、公開されないまま都内の倉庫に保管されている。証言した人が誰なのかも非公開となっている。

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