<竿と筆 文人と釣り歩く>「六物記(釣日記)」岡倉天心
2022年3月19日 07時05分
◆龍王丸で思索の海へ
横山大観ら近代日本画の巨匠を育てた一方、インドの詩聖タゴールらと親しく交わり、「アジアは一つなり」の言葉を残した明治の思想家、岡倉天心。そんな知の巨人を写した一風変わった写真がある。
釣り竿(ざお)と魚籠(びく)を携えて海岸に立つ天心先生。背中にはアザラシの毛皮を背負い、着物はぼろぼろ。頭には道教徒がかぶるような不思議な帽子をかぶり、足元はわら草履だ。明治四十年ごろ、茨城県の五浦(いづら)海岸で撮影されたとされる。
「あんまり異様な風体なので、ロシアの密偵ではないかと怪しまれたこともあった。そんなことは意に介さない人なのです」と茨城県天心記念五浦美術館の学芸員、塩田釈雄さん。
一九〇六(明治三十九)年、天心は新天地を求めて東京から五浦に居を移した。太平洋を見下ろす崖の上に六角堂を築き、思索と読書に明け暮れた。そんな生活の一方で夢中になったのが釣りだった。「岡倉天心全集」(平凡社)の中に、「六物記(釣日記)」が収められている。
明治四十四年から同四十五年にかけての釣り日記で、メモ書きであったのを弟子の一人が起こしたという。
これを見ると季節がよいからか九月上旬などはほとんど毎日、沖に出ている。
「九月六日 豊爺小児病て行く能ハス 千代と籠場ニ出ツ 当らす去る 長浜前ニて投釣す」
何とか釣りをしようとする悪戦苦闘ぶりがうかがえる。その甲斐(かい)あって、大ヒラメを釣り上げたらしい。
「豊」「千代」とは地元の漁師の名。「千代」と呼ばれた渡辺千代次は、六角堂のすぐ隣で「船頭料理天心丸」を営む渡辺栄次さん(72)の祖父にあたる。
栄次さんによると、天心が残した戯(ざ)れ歌があるという。「鎮守の森の村スズメ。朝にチヨチヨ、夜にチヨチヨ」。若い千代次をお供につれて、朝に夜に海に出ていたということだろう。
二人が乗った釣り船龍王丸は、修復された実物が茨城大学五浦美術文化研究所に展示されている。基本は和船だが、西洋のヨットにみられる転覆よけのキール、かじ取りのラダーが取り付けられている。天心は米国のボストン美術館に勤務した当時、ヨットの性能を目の当たりにして驚嘆。帰国後に和洋折衷の船を造らせたという。しかし完成から二カ月後、五十歳で病に倒れ、この世を去った。
栄次さんが祖父から伝えられたという話が興味深い。「先生は沖に行っても竿を出さず、物思いにふけったり、本を読んでいることもあったそうだよ」「魚を取るばかりでは駄目だ。海を豊かにするには山をつくれが口癖だったそうだ」
夢の龍王丸に揺られ、巨人は思索の海を漂っていたのだろうか。
近くの大津港で岸壁から釣り糸を垂らしてみた。下手のせいだろうが、あたりすらない。周りに陣取るカレイ狙いの釣り人たちも苦戦しているようだ。
ぼんやりと沖を見る。
天心先生の声が聞こえてきそうだ。
「まあ、茶でも一口すすろうではないか」「はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか」(『茶の本』より)
<岡倉天心>(1863〜1913年) 横浜生まれ。美術史学研究の草分け。東京美術学校や日本美術院の創設に貢献。著作に「東洋の理想」「日本の目覚め」「茶の本」など。
文・坂本充孝/写真・田中健
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