<東京大空襲 体験者の証言> 平和祈念館建設凍結を機に誕生し20年 東京大空襲・戦災資料センター吉田館長に聞く

2022年3月20日 06時00分

<連載>封印されたビデオ 第4回

 東京大空襲の資料を展示して後世に伝える「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)が開館から20周年を迎えた。同センターは、300人以上の空襲被害者らの証言を収録したビデオテープや遺品などを公開するはずだった「東京都平和祈念館(仮称)」の建設が進まないことに危機感を抱いた有志が、募金を集めて開設した。戦争資料の活用のあり方について吉田裕館長(67)=一橋大名誉教授=に聞いた。(井上靖史)

東京大空襲・戦災資料センターの20年の歩みを振り返る吉田裕館長=東京都江東区の同センターで

 ―東京の空襲を専門的に伝える公立施設がない中で果たしてきた役割は。
 修学旅行生を中心に、多い年で年間1万5000人の来館者を受け入れている。犠牲者の名を読み上げるなどの追悼行事を行い、被害だけでなく日本の戦略爆撃や、空襲犠牲者の中に朝鮮半島出身の方がいる植民地の問題を紹介してきた。
 一方で、歴史的な記録や遺品などの資料をしっかり保存していくのは厳しい。戦争中の体験記や手記、体験画などを保存していくには書庫の温度を一定に保つ必要があるが、十分な設備はない。資料をたくさん並べたり調べたりできるスペースがあればいいが、ここは館長室もないほど手狭なのが実情だ。

 ―平和祈念館建設計画の凍結が、センター開設のきっかけだった。

 東京大空襲のことを知ってもらうため、凍結を解除してほしい。10万人の犠牲者数は、原爆が投下された広島(推計14万人)や長崎(同7万人)に匹敵する被害だが、東京大空襲の知名度は格段に低い。
 公的支援があるかないかが、大きい。1973~74年に都民らの手記を収録した5巻の「東京大空襲・戦災誌」は美濃部亮吉知事時代に都庁から公的援助があったからできた部分もある。
 ―平和祈念館の計画凍結で、証言ビデオや都民の遺品が倉庫で眠っている。
 このまま眠らせてしまうのは問題だ。当初の方針どおり、施設を整備して展示してもらいたい。自分たちでもやるべきことはやっていきたい。
 ―今後、目指す取り組みは。
 2014年に戦後生まれが8割を超えた。直接、体験者から話を聞ける機会がなくなってくる。戦争の奥行きまで理解した若いボランティアガイドの育成に努めたい。
 日本が近代化の道を歩み始めた明治元年から敗戦までが77年。今年は敗戦から77年。戦争や空襲の体験に、日本社会全体が補償も含めてどう向き合ってきたのか、あるいは向き合ってこなかったのか、しっかり考えていきたい。
 最近、戦争遺跡が観光資源化され、まちおこしと結び付くような動きが活発になっているのも気になる。戦争への反省、死者への悼み、生き残った方への寄り添いを大切にしたい。=おわり

東京大空襲の資料を展示する東京大空襲・戦災資料センター=東京都江東区で

◆センターの歩み

 東京大空襲・戦災資料センターは、平和祈念館の整備が1999年に凍結されたことを受け、東京大空襲の全体像を知ってもらおうと2002年3月9日にオープンした。空襲体験者の作家早乙女勝元さん(89)や財団法人・政治経済研究所の呼び掛けで、俳優の吉永小百合さんら約4000人が募金に応じ、約1億円の資金が集まった。土地は篤志家から寄付を受けた。
 3階建てで延べ659平方メートルのうち、展示室は1、2階部分で計379平方メートル。早乙女さんらが設立した「東京空襲を記録する会」が集めていたものに加え、新たにセンターに寄せられた計6000点の資料を所蔵する。年間の運営費は2100万円。センターによると、これまでに約22万人が来場した。
 初代館長に早乙女さんが就き、19年に「日本軍兵士」などの著書がある吉田裕さんが2代目館長となった。現在名誉館長を務める早乙女さんは取材に「最初は平和祈念館の凍結で行き場をなくした資料の保管が中心だったが、多くの方の力で空襲を語り伝える場へと変貌をとげた」とコメントした。

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