<よみがえる明治のドレス・17>憲法発布の年 近代化の証明 皇后の洋装1億円

2022年3月22日 07時08分

立憲国家として船出した年の皇后の洋服の種別と代金が詳細に記録された覚書=学習院大文学部史学科蔵

 大日本帝国憲法(明治憲法)が発布された一八八九(明治二十二)年。この年四月から翌年三月までの一年間に、明治天皇の后(きさき)、美子(はるこ)皇后が新調した洋服や靴、帽子などの服飾品を合わせると現代の価値にして一億円に達していた。皇后側近トップの皇后宮(こうごうぐう)大夫香川敬三が記した記録から、日本が立憲国家として船出した年の皇后の装いの概要が明らかになってきた。
 皇后がこの年の一年間に新調した洋服の詳細が記された史料は、(1)「御衣服費書上」(2)「皇后宮御服定額書付」と題された覚書と、ドイツ人の(3)フォン・モール夫人宛ての書簡の三点。いずれも香川敬三が記していたもので、茨城県立歴史館の特別展「華麗なる明治−宮廷文化のエッセンス」(来月十日まで)で展示中だ。

帰国するドイツ人のフォン・モール夫人に大礼服などの新調を依頼したことが記されている香川敬三の書簡=学習院大文学部史学科蔵

 このうち、(1)は皇后の一年間の服飾代を香川が書き上げたもので、洋服の種別も詳しい。大礼服(マント・ド・クール)の記載はないが、平常服二十二着、公的な外出着である行啓(ぎょうけい)服六着、観桜会・観菊会用二着、御裾長服(通常礼服)二着、夜服(中礼服)三着を新調し、通常服二着と夜服一着を外国に発注予定で、飾品代を合わせて六千円とある。(2)は平常服に靴やコルセット、扇子などの服飾品を加えたもので、金額も(1)の二倍以上の計一万三千円にのぼる。
 (3)は宮内省顧問として八七年四月から二年間にわたって宮中儀礼策定に尽力したモール夫妻が八九年四月に帰国するにあたり、皇后の大礼服と夜会服(イブニングドレス)、尋問服(ヴィジティングドレス)をモール夫人に依頼した書簡の写しで、大礼服が五千円、夜会服などが二千円と発注額も明記されている。皇后は服地二巻、白縮緬(ちりめん)一斤などを在ベルリン日本公使館に送付しており、あくまで服地は国産で、仕立てのみをドイツに発注していた。

香川敬三肖像画(五姓田義松 紙・鉛筆・チョーク)=学習院大文学部史学科蔵

 皇后は八七年一月、大臣、華族らを対象に内達した婦女服制に関する思召書で、女子の洋装と国産服地の使用を推奨しており、八九年にドイツに依頼したドレス製作も思召書の一環とみられる。八六年にドイツで購入した大礼服は服地を含めてすべて外国産で、皇后の思召書以降、日本では国産による大礼服製作も同時進行していた。
 中世日本研究所所長のモニカ・ベーテさんは、香川書簡にある大礼服について「『第二号』のドイツ製大礼服でしょう」と指摘。その上で、「(国内で作られた)大聖寺(京都)蔵とドイツに追加発注された大礼服も、国産服地で仕立てているなら、日本の工業を奨励する思召書の趣旨が生かされている」と話す。
 明治二十年代の初めは、明治宮殿の落成、大日本帝国憲法の発布、帝国議会の開院など、日本が西洋列強に比肩すべく、近代国家としての体裁を急速に整えていった時期だ。この時期の皇后の洋装に関する金額が明記された資料は珍しく、茨城県立歴史館主任研究員の石井裕さんは、明治二十二年度の約一万三千円(海外発注分含む)という皇后の服飾代について「明治二十年の白米十キログラムが四十六銭で、現在でいうと、約六千二百万円。靴や扇子などその他の服飾品代を含めると一億円を超える。明治国家の意気込みを示すものだ」と指摘する。

美子皇后の最古の洋装写真。明治20年ごろの着用とみられる=個人蔵

 宮中女子の洋装化は男子と比べ十五年遅れた。男子の洋装化が定着しても、それだけでは日本が近代化したとは見なされなかった。日本が西洋と同じ価値観を共有する国家となったことを証明するには、皇后の洋装化が効果的と考えられた。
 「その意味で、この時期の皇后の巨額な衣装代は、西洋流の国際儀礼に不可欠の国家元首夫妻の洋装化という最後の関門を達成したことを示すものといえる」と石井さんは話す。
 文・吉原康和
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