ウクライナ危機 武力による秩序に反抗を 中島岳志

2022年4月1日 07時00分
 ウクライナからの避難民が殺到したポーランドの国境近くの駅で、「1 room」と書いた紙を持った人がテレビに映されていた。おそらく「何かできることはないか」と考え、避難民に自宅の部屋を提供しようとしているのだろう。スペインからポーランドまで救援物資をタクシーで届け、空になった車で避難民をスペインまで連れて来たマドリードのタクシー運転手もいた。日本でも、避難民の受け入れや寄付など、幅広い支援行動が見られる。世界の多くの人が「何とかしなければ」という衝動にかられ、ウクライナを支援しようとしている。
 ウクライナ国民も、ロシアからの侵略に徹底抗戦している。戦争前、ゼレンスキー大統領の支持率は41%だったが、これが91%に跳ね上がっている。ゼレンスキー大統領の不人気を前提に、短期決戦によるウクライナ占拠を想定していたロシアは、思わぬ長期化に戦略の練り直しを迫られている。ロシア国内でも、拘束を恐れずに、プーチン大統領への批判を表明する人たちがいる。なぜ今、人々は立ち上がり、行動するのだろうか。
 内田樹は、自らのホームページ(「内田樹の研究室」)に公開した文章(「ウクライナ危機と『反抗』」、3月17日)の中で「これまでとは違うことが起きているということを誰もが感じ取っている」と指摘する。内田が参考にするのは、アルベール・カミュの『反抗的人間』という哲学書である。主人の命令に従ってきた奴隷が、ある日突然、「この命令には従えない」と言い出す。「踏み越えてはいけない一線」というのは、事前には把握されておらず、その線が決壊したときに、人々は立ち上がる。
 この「反抗」は「もう我慢ならない」という感情によって起動しているだけではなく、「これを受け入れてしまうと、自分ひとりでは弁済し切れないほどのものを失うと感じた時」に選択される。人が命を懸けた「反抗」を選ぶのは、自分の利害を超えた大切な権利が奪われると考えた時である。今起きているのは、そのような事態だと内田は論じる。
 プーチン大統領は、明らかに国際秩序の前提を覆している。岩下明裕は、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターのホームページに公開した文章(「ロシアのウクライナ侵攻について考えること」、3月3日)の中で、「冷戦後半からポスト冷戦期まで共有されてきた原則」が大きく崩されたことを憂慮する。その原則とは、「ソ連崩壊後、構成共和国という行政的な境界をそのまま国境にして紛争を抑える、あるいは国境はあくまで平和的な方法でしか変更しない」というもので、これをプーチン大統領は破綻させているという。
 これが意味するのは、いかなる事態なのだろうか。岩下曰(いわ)く「国境や新しい秩序が武力で決まるということだろう」。人々は、この事態を「踏み越えてはいけない一線」と捉え、ロシアの軍事行動に「反抗」しているのだ。
 多くの専門家が指摘するように、ロシアはいまだに古いパワー・ポリティクスの論理をとっている。ロシアがNATO(北大西洋条約機構)の東方拡大に不満を抱き、ヨーロッパに米軍が駐留することに反発する姿勢は理解できる。しかし、周辺国に対する軍事侵略によって対抗しようとする姿勢は、到底容認できるものではない。
 廣瀬陽子は「プーチンのグランド・ストラテジーと『狭間(はざま)の政治学』−ロシアと地政学」(北岡伸一・細谷雄一編『新しい地政学』東洋経済新報社、2020年)の中で、プーチン政権に大きな影響を与える地政学者ドゥーギンの論理を紹介し、ロシアの戦略を「フィンランド化」という概念で説明する。「フィンランド化」とは、冷戦時代に独立を維持しながらも、ソ連の影響下にあったフィンランドの状態を前提とするもので、ヨーロッパ諸国が「NATOを脱して軍事的に中立となり、ロシアの影響下に置かれる状況」こそ、ロシアが指向する秩序であると指摘する。
 このロシアの覇権主義とヨーロッパ諸国の「狭間」に置かれた小国は、大国間のバランスをとることを余儀なくされ、これに失敗すると、大きな痛手を負う。ウクライナの状況は、この原理で説明可能だが、それに伴う軍事侵攻は、世界的に「踏み越えてはいけない一線」と捉えられている。
 国際情勢の変化やロシアの戦略を分析する冷静な思考とともに、自分の中に湧き上がってくる「反抗」の精神を大切にしたい。(なかじま・たけし=東京工業大教授)

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