「3密」が集落を滅ぼした 100年前の災禍 今に警鐘 福井・大野にスペイン風邪の碑

2020年4月28日 16時00分

スペイン風邪の状況を記した石碑=福井県大野市面谷で

 一九一八(大正七)年に世界でまん延した「スペイン風邪」が広がり、その後、離村へと追い込まれた集落が福井県大野市の山奥にあった。集落跡に立つ石碑には、住民の一割近くが死亡し、壊滅的な被害を受けたと克明に記されている。新型コロナウイルスの感染が広がる今、約百年前の惨状を繰り返してはいけないと、不住の地から訴えかけている。 (山内道朗)
 集落は、大野市和泉地区の九頭竜湖南側に位置する面谷(おもだに)。同市教委文化財課によると、かつて、良質な銅を産出する鉱山町だった。幕末は大野藩の財政改革に寄与し、明治に入ると財閥の合資会社が鉱山経営を引き継ぎ隆盛を極めた。当時の大野市街地にはなかった電気も通り、「穴馬の銀座」と称されたほど。海外から安価な銅が輸入されるようになっていたところにスペイン風邪のまん延が追い打ちをかけ、鉱山は二二年に閉鎖。集落も解散した。
 石碑はいつ、誰が建てたかはっきりしないが、集落の関係者らが後年、火葬場跡につくったとみられる。記述は「南無阿弥陀仏」で始まる。集落で「成金風邪」と呼ばれたスペイン風邪に襲われたのは一八年十月中旬。医師が悪性の流行性感冒(インフルエンザ)に注意するよう住民らに伝えた直後だったと記されている。
 当時、人口千人ほどだった面谷で「流行が始まって一か月余りの中、九十余名の死者が出たので、鉱山の機能は一時中止をしたような状態」に。診療所には院長や薬剤師ら五人がいたが「患者数が多いため医師の往診もままなら」なかった。死者が続出し火葬や棺おけの準備が間に合わず、ほとんどが十分な弔いも受けられなかったという。
 当時の資料は他になく、山奥の集落への感染ルートは分からないが、同課主任学芸員の田中孝志さんは、銅の搬出や鉱山会社関係者らの出入りとの関連に注目する。集落内の劇場が今で言う「クラスター」(感染者集団)となり、「三密」の環境だった鉱山の坑道内でさらに感染が拡大したと推測。「鉱山は賃金が出来高払いで、五~十人が一班で働く。休むと生活に影響し、住民のつながりが強かったので周りに迷惑を掛けられないと、無理に働いた人もいたのでは」とみる。
 田中さんは「スペイン風邪の石碑を建立しているのは、それだけ繰り返してはいけないという強いメッセージ」と指摘。東日本大震災の被災地では、石碑や地蔵で先人たちが津波からの安全地帯を教えていたことにも触れ「災禍の歴史を遺物が教えてくれている。それをいかに生かすか、考えなければならない」と話した。

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