「つま恋」「全国ツアー」「フォーライフ」……。吉田拓郎、本紙に語る

2022年4月17日 09時00分

◆伝説のライブ、一番のライブ

 吉田拓郎伝説の一つが、約6万人を集めたとされるつま恋(静岡県掛川市)や、篠島(愛知県南知多町)でのオールナイトコンサートだ。ただ、本人の「一番の思い出のライブ」は別の場所だった。

吉田拓郎(中央)が『忘れられないステージ』と語る2019年の名古屋でのコンサート=エイベックス提供

 最後になった2019年の名古屋のステージは忘れられない。好きなライブだ。バンドが固まっていた。02年ごろから一緒にやっていたが、バンドとしてもできあがった。ギターの鳥山(雄司)、(キーボードの)武部(聡志)が一番古いつきあいだが、本当に見事にすべてを理解してもらい、その理解を超える演奏をやってくれた。
 僕はバンド出身なので、バンドサウンドにすごいこだわりを持っている。僕のボーカルとか、アレンジがどうとかではなく、バンドとしてのまとまり、どういう音を出しているかがすごく気になる。その意味で、あのバンドはあそこで集大成みたいなモノを披露できたと思う。
 ―つま恋の自己評価は?
 1975年のつま恋は、日本のコンサート史上、歴史に残るイベントだったと思う。前代未聞のオールナイトで朝までやるというのは、おこがましいけれども、歴史に残るステージだった。出来、不出来は置いといて(笑)。二度と聴きたいとは思わない、あの音を。イベントとしては胸を張ってすばらしかったとは言える。
 ―なぜ二度と聴きたくない?
 まあ下手。演奏とか。下手だし、歌もいっぱい間違っているし、それからあの時代だからPA(音響設備)とかがちゃんとしていない。まあ無理もない。初の野外で、しかも朝まで歌って、普通にちゃんと歌えないよね。そういうのも含めてイベントとしてすごかったという気がする。
 ―オールナイトコンサートは79年の篠島、85年の二度目のつま恋と三回もしている。あなたが完全燃焼するには一晩必要だった?
 どうかな。何を考えていたんでしょうね(笑)。やっぱり人がやっていないことをやろう、というのが当時の若者の気概みたいなものだったのではないか。人がやっているのをやってもしょうがない、というのがあったのではないか。
 ―歴史的イベントが東海地方に多い。理由は?
 全く裏話だが、70年代に名古屋の照明屋がいた。地元のイベンターに紹介された。彼と一緒に全国を回ることになった。だから僕のツアーの照明は名古屋の照明。こいつが名古屋の話ばっかりする。「名古屋は食事はおいしい、女の子はきれい、遊ぶところはいっぱい。拓郎が好きな街ナンバーワンだよ」と。それを暗黙のうちにすり込まれて(笑)。つま恋でコンサートをやる時も名古屋のイベンターがチケット販売でメインにやる、となった。
 篠島も、その照明屋が「名古屋の先に面白い島があるんだけど、歌ってみないか」と持ってきた。島といえば、僕がよく知るのは、ボブ・ディランが(69年にイギリスの)ワイト島で開いたコンサート。それが頭にあったので、「島でやれば俺もボブディランになれる」というのがあって、篠島でやった。
 名古屋にはサンデーフォークっていう有名なイベンターがいるが、僕はここの初代社長から懇意にしている。名古屋の彼らの気質っていうか、非常にビジネスがうまい。ツアーで「今回はあそこ行きたくないな」というのがあったりするが、名古屋を外すことはない。そういうようなことから、よく名古屋に行っているようにみえたかもしれない。

◆切り開いた「単独全国ツアー」

 僕が日本で初めてやった単独全国ツアーというのも、人がやっていないことをやろう、ということだった。旧態依然とした芸能界とか歌謡界が日本の音楽をつくってきたとしたら、そこに一つ区切りをつけて「これからは違う」、というのをやってみせたかった。
 東京へ出てきた当時は、今のようなイベンターという職業はなくて、僕たちのコンサートは地方の有力者などが主催していた。その主催者が音楽を分かっていない。「そんな環境で歌えるか」というのが第一印象だ。
 しかもコンサートは、僕だけじゃなく、当時のフォークソングといわれている人たちの寄せ集め。例えば札幌に10組呼んで、いっぺんに歌わせて、1人10分や15分の持ち時間だ。「10分で吉田拓郎って分からないと思うよ」というのが持論だった。それが発端。「俺、最低でも2時間ぐらい歌わないと分かってもらえない」というのが、単独ツアーをやりたい、というのに結びついていった。若かったから。血気盛んに(古い常識に)抵抗したんじゃないかな。

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