戦乱の関東 両氏の盛衰 『山内上杉氏と扇谷上杉氏』 東洋大准教授・木下聡さん(45)

2022年4月17日 07時00分
 日本の中世の歴史書が盛んに出版されるようになった。応仁の乱に先立ち、関東で起こった大動乱を知る人も増えているだろう。近年ではテーマも微に入り細をうがつような感がある。吉川弘文館はシリーズ「動乱の東国史」(全七巻)に続き、「対決の東国史」(同)を刊行中。木下聡さんは室町時代の関東で並び立った山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の「対決」を担当した。
 同族から分流し、山内は「本家」のような存在で関東管領に就き上野(こうずけ)・北武蔵を基盤に、「分家」の扇谷は相模・南武蔵を基盤とした。最初から対立していたわけではないという。「長らく両上杉氏は協調・協力していた。大きく対立したのは一度だけのことです」
 両上杉氏は室町幕府に反逆的な鎌倉公方足利持氏を幕府とともに討伐し、その子でのちに古河公方となる成氏とも反目。ここに前述の大動乱・享徳の乱が勃発し(一四五四年)、関東の大半は戦乱に。乱は成氏と幕府による「都鄙(とひ)和睦」(一四八二年)で終結した。この間、山内の家宰長尾家の景春による乱も扇谷の家宰太田道灌(どうかん)が収束させた。
 「道灌一党ばかりが身代を膨らませれば、扇谷家中に嫉妬や反感が渦巻くのは当然。家臣らの意見に当主が引きずられるのはよくあることです」。かくして道灌は相模にある扇谷の糟屋館で誘殺された。「道灌は景春の乱で活躍しすぎた」と木下さん。「享徳の乱の終結で、外敵(成氏)のために棚上げされてきた両上杉氏の抱える問題や矛盾が噴き出し、それが道灌に絡んで結果的に殺害へとつながったといえるでしょう」
 ついに衝突。「長享の乱」(一四八七年)だ。成氏や景春も絡まり乱戦模様に。この機に伊勢宗瑞(北条早雲)がつけ入る。結局扇谷が山内に屈服。両上杉氏は再び協調していくが、宗瑞とその跡を継いだ北条氏綱・氏康に圧迫され、ともに東国史の表舞台を去る。
 「山内はかなり研究されていますが、私の著作では扇谷について従来に増して充実させています。道灌亡き後も勢力と影響力を保持し、戦(いくさ)でひけをとらないほど力を持ち得ていたことを示せたと考えています」
 本書の最後にこの対決の「意義」が記されるが、要約してもらえば「両上杉氏の領地はそのまま北条の領地に替わっていった。協調せずに対決した結果が、戦国大名北条氏をもたらしたといえる」となる。 吉川弘文館・二二〇〇円。(小鷲正勝)

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