「象徴」語れる社会に 上皇ご夫妻の「冒険」小説刊行 森達也さん(作家・映画監督)

2022年4月16日 13時04分
 オウム真理教の内部から撮影したドキュメンタリー映画「A」など、常識を揺さぶる作品を発表し続けてきた森達也さん(65)。三月に刊行した新著『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)にも驚いた。主要登場人物の名は「明仁」と「美智子」。上皇ご夫妻が冒険を繰り広げるファンタジー小説だ。
 話題騒然となりそうな作品に思えるが、発売の二週間後、森さんは浮かない表情だった。「本への反響は今のところ全然ありません。黙殺か炎上か、どちらかだと思っていましたが…」。聞けば、雑誌で書評される予定が二件立ち消えになったばかりだという。かつて映画「A」でも体験した「見慣れた風景です」。
 物語は、虚実の合間を漂いながら進んでいく。
 舞台は天皇の生前退位を控えた平成末の日本。映画監督の「克也」は、憲法をテーマにしたフジテレビのドキュメンタリー番組で、憲法一条、つまり日本の象徴とされる天皇の日常を撮影することを計画する。
 これは二〇〇四年の森さんの実体験がベースだ。「天皇制は社会の隅々まで息づいているのに語られにくい。勉強するほど違和感を持った」。皇居に手紙を送ったり、「ご学友」にメールアドレスを尋ねたり、さらにフジテレビからは「手法に違和感がある」と迫られ…。天皇の撮影がいかに困難か。さまざまなアプローチが失敗する過程そのものを映像に収めていったが、企画は破綻した。
 「その後も二人への思いは強くなった。テレビなどで見ていると、国民に何か伝えたいんじゃないかと思えた」。例えば二〇一四年は栃木県で、足尾銅山の公害を明治天皇に伝えようとした田中正造の直訴状を見学し、一六年には敗戦で多数の死者を出した満蒙(まんもう)開拓団の記念館を訪問している。「これらはすべて私的な旅行。車中で何を話しているのかな、とか妄想するわけです。その妄想を文字にして悪いことはない。小説という空間ならできる」
 小説は雑誌連載が一度決まったが中止になり、その後も大手の文芸誌や出版社に軒並み断られたという。「『役員会で反対された』とか『むちゃくちゃ面白いけどうちは無理』とか理由はいろいろ。でも『天皇だからだめ』とは絶対に言わない。要するに過剰な忖度(そんたく)によって形成される菊のタブー。小説のテーマが小説の扱いにも表れた」
 作中で鍵を握るのは、存在するのに触れない、見える人にしか見えない謎の生き物「カタシロ」。克也は出会うはずのない明仁と美智子に出会い、比喩ではなく文字通りの「ラビリンス(迷宮)」に迷い込む。
 印象的なのは、二人のチャーミングな人物造形だ。口数は多くないが常に思考を巡らせている学者肌の明仁と、本の虫で好奇心旺盛な美智子。ソファでテレビを見てくつろぎ、孫の成長が楽しみで、時には時代劇「暴れん坊将軍」のようにお忍びで街に繰り出す。
 森さん自身は「天皇制が危険なシステムであることは確かで、その危険性が自由に語れない空気でより強くなっている。ならば要らないんじゃないかという立場」だというが、好意さえ感じる描写だ。「『森さんからのラブレターだ』という人もいました。右だけでなく、左からの反発もあるかもしれない。ただ、二人には反論権がないからそこへの批判はあるかもしれませんが、誹謗(ひぼう)中傷と思われる書き方はしていないつもりです」
 本の帯に「問題小説」という言葉がある。この小説が「問題」だとすれば、原因は内容ではなく、私たちの「象徴」について語れない社会の方ではないか。「タブーがあるとされながら、結婚などのプライバシーをスキャンダルとして消費する皇室報道は見ていて気持ちが悪い。実際の明仁上皇は『象徴』について『模索する』と何度も発言されていたが、本来は、そのポジションを与えたこちら側が考えなければならない」
 刊行された以上、この小説をお二人が読む可能性もゼロではない。「登場する人みんなに献本しました。もちろん二人にも読んでほしいですね」。もしそうなったら、どんな表情を浮かべるだろう…。森さんにつられ、私もそんな妄想をした。 (谷岡聖史)

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