<よみがえる明治のドレス・最終回>響き合う東西の美 異彩放つ小袖夜会服

2022年4月26日 07時13分

西洋のバッスルスタイルと日本の伝統美の小袖が調和した「小袖夜会服」。前方、後方、側方から撮影=いずれも公益財団法人鍋島報效会蔵

 「鹿鳴館の華」とうたわれた侯爵鍋島直大(なおひろ)夫人の栄子(ながこ)が着用した「小袖夜会服」が、異彩を放っている。江戸時代後期の小袖を活用した和洋折衷のドレスだ。大妻女子大(千代田区)による調査・修復の過程から鮮明となったのは、「ジャポニスム」と呼ばれた、欧州での十九世紀後半の日本ブームを背景にした東西文化の融合だった。
 「江戸後期の小袖類がカンバスを抜け出して現実のドレスとしてバッスルスタイルに再生されたことです」。一九八〇年代から鍋島家伝来の服飾遺品の調査、修復に携わった大妻女子大名誉教授の石井とめ子さんは、小袖夜会服の魅力をこう表現する。
 「カンバスを抜け出して」とは、小袖が西洋人の日本への関心の一つとして幕末にすでにジェームズ・ティソら有名画家たちが描く絵画のモチーフとなっていた状況を指す。バッスルスタイルは、スカート後方を膨らませる腰当てを使った当時流行のドレスだ。

修復時に試作された小袖夜会服のレプリカ=大妻女子大博物館蔵

 小袖夜会服は、「鹿鳴時代御洋服」などと貼り紙に記す長持ちに収められた約二十点に及ぶ鍋島夫妻の洋服の一つ。鍋島家から一括して七〇年、佐賀県立博物館(佐賀市)に寄託され、現在、鍋島報效会徴古館(ほうこうかいちょうこかん)(同)が所蔵している。
 これらの服飾遺品が石井さんら専門家に初めて公開されたのは八〇年。石井さんは「夜会服の損傷は激しく、ドレスを持ち上げただけで杢(もく)ビーズが飛散した」と振り返る。その後、鍋島報效会から同大の石井研究室に依頼があり、八二年から八五年にかけて修復が行われた。
 現物に直接手を加えるのは危険を伴うので、試作品(レプリカ)を作った上で、修復に着手。研究室のゼミ生七人が参加して杢ビーズ飾りや房飾りなど、緻密な修復作業に当たった。

修復前の小袖夜会服=石井とめ子さん提供

 杢ビーズ飾りの木地は原形と同形のものを別注し、それを巻く「かま糸」は白、紫、赤など七色。巻き上げた杢ビーズは、白糸が二千九百四十個、色糸は八百四個。色糸七色、金糸、ほぐした穴糸を束ねた色房飾りは計百七十八個。杢ビーズや色房飾りは、歩行などの動きに連動して揺れ、華やかさを演出する。石井さんは「本物と同じ材料を使用する過程で、その時代の技術、材料調整などを表裏から理解できる」とレプリカの効果を強調する。
 修復の過程で明らかになったことも少なくない。
 「この夜会服の表地は江戸後期の小袖を活用した日本製ですが、裏面の仕立てをみると、鯨ひげのボーン(張り骨)を取り付けるなど、他の素材のすべては舶来品です」。石井さんはこう指摘した上で、「デザイン性を眺めると日本的な要素を採用したと認めることができると同時に、外国人裁縫師の参画も推察できる」と分析した。

「鹿鳴館の華」の一人とされた鍋島栄子の洋装写真。直筆のサインが記されている=聖心女子大史学研究室蔵

 イタリア公使などを務めた鍋島直大・栄子夫妻は、当時としては一流の国際人だった。鹿鳴館時代の一八八五年十月以降、式部長官の直大が幹事長となって週一回舞踏会を催し、栄子もホスト役を務めた。栄子と一度ワルツを踊ったというフランス人陸軍士官のピエール・ロティは「彼女は一点の非の打ちようもなく」と社交性や洋服の着こなしを絶賛していた。
 元徴古館副館長の藤口悦子さんは、「数多くの栄子様の洋装写真のうち小袖夜会服姿の写真は見当たらないが、洗練されたドレス姿は本場仕込みの経験が生きていたのでしょう」と分析した上で「これだけのドレスを購入できた鍋島家の財力も見逃せない」と話す。
 鹿鳴館の舞踏会などは来日外国人や一部の日本人の間でも不評で、明治政府の条約改正交渉の頓挫を機に、行き過ぎた欧化主義は沈静化したが、宮中に確立した洋装化の流れは揺らぐことはなかった。
 文・吉原康和/写真・中西祥子
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