ほこりまみれの土蔵で見つかった「五日市憲法」…民主主義の源流訪ねませんか

2022年4月29日 06時57分

深沢家屋敷跡の土蔵

 54年前、西多摩の旧家の土蔵で明治時代初期に書かれた憲法の草案が見つかった。国民の主権、平等、地方自治などを精緻に規定したこの通称「五日市憲法」は、現「日本国憲法」の地下水脈といえる。新緑の季節、日本の民主主義の源流を訪ねる旅は、どうだろう。5月3日は憲法記念日。
 JR武蔵五日市駅(あきる野市)から徒歩一時間ほど、清流が流れる谷間の集落に深沢家の土蔵は眠っている。四月上旬、山肌にハナモモの花が咲き乱れていた。六月にはアジサイも咲くという。取材には新井勝紘元専修大学教授、「五日市憲法草案の会」(五憲(ごけん)の会)の鈴木富雄・事務局長に案内役をお願いした。

五日市憲法草案の記念碑 正面に抜粋の六カ条、副碑に五日市学芸講談会のメンバー30人の名前が刻まれている

 一九六八年八月、東京経済大学の色川大吉教授らが土蔵に調査に入り、憲法草案を発見した。当時、色川ゼミの学生だった新井さんは調査に参加し、初めて草案を手にしたその人だ。
 土蔵は施錠されており、普段は人が入れない。今回は深沢家から特別の許可を得た。重厚な二重の扉を開けると、無数のカマドウマが飛び出してきた。懐中電灯を頼りに進み、急な階段を上る。二階のほこりまみれの棚の前で新井さんは立ち止まった。

あきる野市の深沢家土蔵の中で、発見当時の様子を話す新井元教授

 「五十四年前、ここには二百冊を超える書物や書類が積み重ねてありました。それを運び出そうとする作業の途中、一番下にある竹製の文箱に目がいった。中には『日本帝国憲法』と書かれた紙のつづりが風呂敷に包まれて入っていた。当初は明治憲法を写したものと思いました。それが五日市憲法だったのです」と新井さん。
 その後の研究で草案が書かれた経緯が明らかになる。起草者は千葉卓三郎。仙台藩士の子で、戊辰(ぼしん)戦争に参加して生き残り、流浪の身となった学究の若者だ。千葉は一八八〇(明治十三)年、五日市に勧能学校(当時の小学校)の教師として来た。当時の五日市は材木や炭の集積地で、財をなした商人や名主が自主の気風を育んだ土地だった。彼らは結社「五日市学芸講談会」をつくり、新しい日本の姿を論じ合った。中心人物は、名主の深沢家の弱冠二十歳の当主、深沢権八だった。

開光院 五日市学芸講談会の会場として頻繁に使われた

 この時代、全国の自由民権運動の運動家たちはこぞって憲法草案をつくった。私擬憲法と呼ばれ、その数は百を超えるとも。中でも五日市憲法の民主的、開明的な内容は際立っている。
 特に、三十六項目に及ぶ国民の権利規定は圧巻。太平洋戦争後に生まれた日本国憲法の源流ともいわれる。日本国憲法は、在野の憲法学者・鈴木安蔵が実質的な起草者だとされるが、鈴木は明治の私擬憲法、特に土佐の自由民権運動家、植木枝盛がまとめた「東洋大日本国国憲按(あん)」に強い影響を受けたと話している。鈴木は蔵に眠っていた五日市憲法を目にすることはなかったが、「東洋大日本国国憲按」は五日市憲法と酷似している。
 鈴木の出身地である福島県南相馬市では一昨年、地元有志により「鈴木安蔵を讃(たた)える会」が発足。記念館の建設に向けて活動を始めた。五憲の会も記念館建設をあきる野市と交渉中で、両者は昨年末、南相馬市で交流会を開いた。

勧能学校の跡地 現在は校舎などはなく、神社のお堂があるのみ

 あきる野市には、五日市憲法を巡る史跡がいくつかあり、五憲の会では求めに応じて見学ツアーを開催してきた。国民の権利を求めた明治の熱い思いに触れ、日本国憲法の価値を再認識する旅になる。問い合わせは=電、ファクス042(595)0749=まで。
文・坂本充孝 写真・田中健
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