二・二六事件 水上源一の家族写真 「最愛なる妻」と子、そののち<一枚のものがたり>水上源一の遺児・井上宣子さん

2022年4月30日 07時07分

水上源一と妻はつね、長女宣子の家族写真。宣子2歳の記念に撮影した

 神奈川県湯河原町の温泉街を流れる千歳川。そのせせらぎが聞こえる高台に立つ一軒の屋敷「光風荘」が歴史の舞台となったのは、一九三六(昭和十一)年二月のことだ。反乱将校らが国家の中枢を同時多発襲撃した二・二六事件。この家で静養中の前内大臣・牧野伸顕(のぶあき)が未明に襲われた。
 建て替えられ、事件の記憶を伝える展示施設となった光風荘に二〇〇五年秋、襲撃犯の水上源一(みずかみげんいち)(一九〇八〜三六年)のコーナーができた。遺筆や手紙とともに一枚の写真が目を引く。力強いまなざしの男と座る女、あどけない女の子。水上と妻はつね(初子)、娘の宣子(のぶこ)が、宣子二歳の記念に撮った家族写真だ。
 コーナーができたのは、宣子の訪問がきっかけだった。応対したボランティアの小口(おぐち)佳都子(84)に「高校生まで父は戦死したと思っていました」「(はつねの没後)般若心経が千枚以上出てきた」と言った。その後、施設の求めに応じ遺品が提供された。はつねが亡くなるまで大切に守ってきたものだった。
 日本大学専門部に通う水上と、女学生のはつねは一九二八年、東北本線の車中で知り合い、恋に落ちた。やがて一緒に暮らすようになり、水上が日大法文学部在学中の三四年に結婚。宣子が生まれた。水上は卒業後、弁理士となった。
 一方で水上は、学生時代から「直接行動」による体制改革を目指す「昭和維新運動」に傾倒していた。重臣を殺害して体制を転覆させる危険な思想だが、それを正義と信じた。
 三二年、陸軍に入隊した日大の友人の紹介で、反乱将校の中心人物・栗原安秀と出会う。その考えに共鳴した水上は、誘われるまま事件に参加。初対面の航空兵大尉河野寿(こうのひさし)の指揮の下、牧野を襲撃した。河野が警備の巡査に撃たれて重傷を負ってからは、自ら指揮を執り、家に火を放った。
 牧野は間一髪で逃れて無事だったが、巡査が撃ち殺された。リーダーの河野は病室を抜け出して自決。残りは逮捕され、軍法会議で有罪とされた。水上は求刑懲役十五年だったが、判決ではただ一人極刑とされた。
 三六年七月五日の判決から執行まで一週間。半年ぶりに面会を許されたはつねは、夫が収監されている陸軍の衛戍(えいじゅ)刑務所に通った。二人の手紙から、この時の様子が浮かび上がる。
 「わが最愛なる永遠の妻初子/汝(なんじ)の差し入れ物を大変うまく食いました」「最後のものと思えば感慨無量だ/最後までお前の心尽くし永遠に忘れや致しません」
 「涙などお見せいたし申し訳なく思っております」「最愛の良人(おっと)/源一様/み胸に/永久にあなたの妻/初子より」
 執行前日、水上は三匹のトンボの絵を描いた扇子に家族三人の名前を入れ、こう記した。<この図のごとく父母は汝を愛せり>
 テロを肯定する過激な思想と、愛する妻子へのやさしい気持ち。そのどちらも水上の一面だった。
 夫を失ったはつねは、宣子を夫の兄夫婦に託し、東京でタイプを学ぶ。手に職をつけ、旧満州に渡航。やがて上海で安定した暮らしを築いて、宣子を呼び寄せた。小学生になっていた娘は伯母を母と思っていて、「お母さん」と呼べない。「ママ」と呼ぶことで何とか折り合いをつけた。
 戦後の長い歳月を経て、はつねはいったんは別の男性と結婚するが、数年で籍を抜いた。最後は水上の妻でありたいとの願いからだった。九三年、孫の家で倒れ、数週間後に帰らぬ人となった。夫の死から五十七年。「最愛」の夫婦は、はつねが東京・元麻布の賢崇寺(けんそうじ)に建てた「水上源一家之墓」で再び一緒になった。
 宣子は父の三倍以上の人生を生き、三人の子に恵まれた。八十八歳の今も元気で「お父さんの分まで長生きしなくちゃ」と話す。
 その大きな瞳は、亡き父の生き写しだった。 =敬称略

水上源一の遺児・井上宣子さん。目に父の面影をたたえている=東京・北千住で

 一枚の写真の背後には、時に思いもかけないドラマや、忘れることのできない思い出が隠れています。一線で活躍する写真家から名もなき市井の人々まで、さまざまな人が印画紙に刻んだ「一枚のものがたり」をひもといていきます。 (第2、第5土曜日に掲載します。次回は5月14日です)

 文・加古陽治

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