師岡カリーマさん ウクライナ侵攻に思う

2022年4月30日 12時00分
 特報面で「本音のコラム」を執筆中の師岡カリーマさんが、雑誌『世界』臨時増刊『ウクライナ侵略戦争—世界秩序の危機』(岩波書店)に寄せた巻頭文が話題を呼んでいる。「それでも向き合うために 単純化を避けながら」と題した文章を短縮していただき、師岡さんと『世界』編集部の了承を得て掲載します。

 1970年東京生まれ、エジプト育ち。アナウンサー、文筆家。カイロ大学政経学部卒、ロンドン大学音楽学士。著書に『変わるエジプト、変わらないエジプト』『イスラームから考える』(共に白水社)、『私たちの星で』(共著、岩波書店)など。

師岡カリーマさん

◆ヨーロッパの衝撃 日本は遠く

 ロシア軍がウクライナ侵攻を開始した時、私はヨーロッパにいた。戦争なんて過去のこと、または別の大陸のこと。そう信じて平和を享受していたこの地域の人々の衝撃は大きかった。日本に戻ってみると、その差は小さくない。やはり〝遠くの出来事〟なのだな、と感じられる。
 ロシアにはこれまで何度も行った。大都会も地方都市もよく歩き、途方に暮れるような状況にあった時に受けた思いがけない親切から、「今後、国際政治で何があろうと、ロシアを嫌いになることは決してないだろう」と(考えてみれば当たり前のことを)書いたこともある。ロシア人の友にも恵まれた。彼らの名のもとにウクライナで行われている蛮行に対する彼らの憤りは、私にとっても他人事ひとごととは思えない。でもそんな憤りなど、命を、家族を、人生を奪われた人々を前に、ただ恥じいるしかない。安全な場所にいる私が日々抱いている漠然とした罪悪感も。
 侵攻開始から3週間、英国BBCワールドニュースや中東のアルジャジーラではウクライナ情勢が報道のほぼすべてを占め、特にアルジャジーラの本丸であるアラビア語放送が、渾身こんしんの報道で目を引いた。
 普段のアルジャジーラは数時間おきに30分のニュース、そして毎時間の正時に短いニュースを放送。欧米メディアとは異なる優先順位でトピックを選び、チュニジアやイラク、イエメン、スーダン、エチオピアといった地域の細かいニュースがトップで伝えられて時間もたっぷり割かれる。ニュース以外の時間も充実。ゲストを交えた時事番組、インタビュー、旅番組、ハイテク情報、スポーツ、文学、ドキュメンタリーなどは、内容もここ数年で飛躍的に向上し、何時間観ても飽きない上質なラインアップが無料で視聴可能だ。ところが戦争勃発から3週間は、私が見た限りニュースのみの放送となり、しかもほぼ9割がウクライナ報道。欧米メディアとは一線を画す独自性を打ち出してきたアルジャジーラにあって、記者とカメラを戦闘地も含めウクライナ各地に配備し、「ヨーロッパの戦争」を取材する力の入れようは、やや意外だった。
 ロシアとウクライナに対するスタンスは基本的に欧米メディアと同じだが、BBCなどの一部記者に見られる、詩的な言葉遣いでやや自己陶酔の気がある勿体もったいぶった戦争報道に辟易へきえきしていた私から見ると、アルジャジーラのほうが客観的だ。多くの欧州人にとって戦争は過去か外国のもので、破壊されたウクライナの街並みの写真に「これがヨーロッパの光景とは」とのコメント付きでシェアしている人も多い。その衝撃が彼らの報道姿勢にも影響しているかもしれない。一方、アルジャジーラのアラブ人記者たちは、歴史に類を見ない凄惨せいさんな世界大戦は2つとも、他でもないヨーロッパから始まったことを明らかに意識している。
 「キーウ(キエフ)近郊の町でロシアの砲撃」とウクライナ政府が発表すれば、その直後にはアルジャジーラ記者がそこから生中継で真偽を検証する。背景にはまだ遺体が散乱し、記者は今その場で目撃したことを、震える声で言葉に変えていく。スタジオからの生放送の途中でも、キーウで警報が鳴ればニュースは中断され、数分間にもわたりその音声が、首都中心地の映像とともにひたすら中継される。現場との一体感という意味では、群を抜いていた。

◆安全な距離から感傷と独善に陥ってないか

 富裕国カタールを拠点とし、桁違いの予算をグローバルな視聴者に向けて使うアルジャジーラと、基本的に国内向けの日本のテレビを比べる必要はない。日本では安全を考慮してか、現地の戦況よりも各国政府の発表や周辺諸国に逃れた難民の取材などに比重を置いていた印象だ。それでも十分に戦場の悲惨さは伝わってくるが、戦況を徹底的に自主検証するアルジャジーラでは、情報の量も密度も圧倒的に勝っているのは事実。でもこうして戦争報道にどっぷりかっていると、そのストレスだけで3日に一晩ぐらいしか眠れなかった。遠く離れた日本のメディアが、そこまで張り切って一般視聴者を戦場に引き込む必要はない、という考え方も有効かもしれない。実際、現地に近い北欧では「精神が疲弊して生活に支障が出てきた」と、罪悪感を抱きながらもニュースを見るのをやめてしまった人もいるという。
 でも、これほど周到な戦争報道に始終触れていても当初から抱いていた疑問への答えはひとつも出てこない。むしろ困惑は募るばかりである。最大の問いかけはこれだろう—本当に避けられない戦争だったか。
 ウクライナ支持だから嫌ロシア。逆に反米だからロシア擁護。ネット上の戦争談議を見ていると、白か黒かではない文脈には拒否反応を示すニュースの受け手が自信を増しているように思う。100パーセント同意できない意見を自動的に「悪」と見なして徹底的にやっつける権利を「善」である自分に与える。そのような風潮を、戦争がより鮮明にあぶり出す。特に今回は、そういう反応を引き起こしやすい、いやそういう反応を奨励する戦争になっているように思える。
 プーチン大統領の動機がなんであれ、ウクライナ侵攻や民間人を標的にした無差別で犯罪的な武力行為はとても正当化できるものではない。抵抗するウクライナ人の姿は感動的であり、彼らを支援する民間の諸活動も賞賛に値する。しかし、そうして戦場から伝えられる美談の数々に酔っている世界に、ある種の危うさを感じるのも事実である。
 誰が加害者で、誰が被害者か、白黒のつけやすさゆえに、世界は自ら考えるという労を要さない安易な勧善懲悪の悦に浸りすぎてはいないか。加害者ロシアは独裁国家でプロパガンダ常習犯だからその言い分はすべて虚偽であり、被害者ウクライナとその支援国が言うことはすべて信じられるという安易な確信に甘んじ、安全な距離から感傷と独善に浸っていないか。これほど簡単に正しい側につける紛争はめずらしい。それをいいことに、メディアも政治も私たち市民も、考えることを放棄していないか。これが癖になって、次の戦争まで引きずりはしないかという不安も、強まるばかりだ。

◆「自由」対「強権」危うい単純化

 爆撃で焼け出されたウクライナの人々が、カメラの前で「ロシア人は人間じゃない」と叫ぶのは、自然なことかもしれない。でもマスメディアがそれをそのまま伝えるのは適切か。イスラエル兵に子どもを射殺されたパレスチナ人が、仮に絶望のどん底で「ユダヤ人は人間じゃない」と言ったら、そのままニュース原稿に書くだろうか? パリ同時多発テロの被害者が「ムスリムは人間じゃない」と言ったら? 普段のメディアはもっと慎重なはずだ。
 一般市民が戦闘に巻き込まれ、自ら銃を取らなければならないのは恐ろしい。防空ごうで音楽を奏でたり、志願兵が軍服で結婚式を挙げるなど、ネット受けする美談に私たちが酔っている間に、生身の体が吹き飛ばされている。私たちの心に焼き付けられるべき戦争のイメージは、つらくてもこちらのほうだ。次の戦争こそ、回避するために。
 気がつくと、いつもは大国同士の利害をめぐる複雑な対立構造を紐解ひもといてみせるジャーナリズムがなりをひそめ、「自由と民主主義」対「強権政治」の戦いという、わかりやすい単純化が一流メディアでも定着している。この気安さは、今後私たちの価値観にどういう影響をもたらすのか。
 繰り返すが、ロシアによる侵攻と非人道的な攻撃は言語道断だ。ウクライナの人々の悲劇には同情と憤りしかない。だからこそ思うのだ、この戦争を避ける努力は、本当になされたか。
 侵攻を正当化するプロパガンダと言論統制が伝えられるロシア。それでも反戦の声は完全に抑圧できていない。拘束される反戦デモの参加者。バレエ団の花形ダンサーから高学歴の若者まで、ロシアを見限って去っていく人々。でも、誰もが出国できるわけではない。出国できたところで、制裁のために現金も引き出せず、クレジットカードも使えないかもしれない。戦争支持の人々に囲まれ、うつ状態の知り合いも多いという声も届く。彼らはもちろん、自分たちの災難などウクライナの人々の苦しみとは比較にならないことは承知し、葛藤している。
 「確かに2014年のクリミア併合は、支持者のほうが圧倒的に多かった。でも今回のウクライナ侵攻は明らかに違う。この戦争をめぐる政府のプロパガンダを信じるか信じないかは、世代間の差だ。すなわち、テレビでニュースを見る中高年と、テレビを信じない若者の差。後者では、ウクライナに同情的な人も多い。私たちは、プーチンを選んでいない。その政府の戦争を、私たちロシア人の戦争だと思わないで。反戦デモに参加すると拘束される危険があり、海外の人々が思うほど容易ではない。だからってロシア人を、ロシア語を、ロシア文化を憎まないでほしい」

◆プーチンの暴挙だが…西側の外交的失敗も

 危険を冒して発信を続けるロシア人の言葉を信じたい。信じていいだろうか。それとも彼らの希望的観測か。同時に、ロシア人であるがゆえに反戦や反プーチンを常に宣言しなければ外国人に受け入れられないという強迫観念が痛々しい。
 もちろん、そんな痛々しさは、ウクライナの人々の苦しみの前では、無に等しい。しかし、プーチンの戦争のためにロシアを憎まないで、という言葉は、どこかでイスラム教徒によるテロが起こるたびに聞かれる「イスラムそのものやムスリムを恐れないで」という呼びかけを思い出させる。だから私は、今回のようなロシア人の嘆願を何度も聞いて、そんな当然のことをわざわざ言わなければならない世界が、とても悲しい。どんなに経験と教訓を重ねても、永遠に学習過程なままの世界が。
 「プーチンの戦争」と呼ばれる今回の侵攻。私も一度、この言葉はコラムで使った。でも、とりあえずプーチンを糾弾しておけば間違いはないという不毛なスタンスに陥りたくはない。これはプーチンの暴挙であると同時に、西側の外交的失敗でもある。NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大問題、プーチンの世界観と心理状態と誤算、それらを把握しているはずなのに採られなかった戦争回避策。これらと向かい合うことなく、プーチンを悪魔化して責任逃れをする「世界のリーダーたち」は、どうも薄っぺらに見える。これではこの戦争の教訓は、またしても活かせない。

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