通説疑い実像に迫る 没後1400年迎えた聖徳太子を研究 石井公成さん(駒沢大名誉教授)

2022年5月7日 13時13分
 没後千四百年の節目を迎えた聖徳太子。その実像を巡る議論がかまびすしい。<推古天皇の摂政として国造りを進めた><いや実際は平凡な皇子だった>−。駒沢大名誉教授の石井公成さん(71)は、仏教学を代表する学者の一人。両極端の説とは距離を置き、地道に文献を分析してきた。「太子像の探究を通じ、現代に生きるわれわれの在り方を問いたい」と語る。
 太子は、奈良時代の日本書紀などの書物であがめられてきた。功績として示されているのは、役人の道徳規範を示した十七条憲法のほか、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣…。大王(天皇)中心の政治制度を築き、仏教も深く理解して広めた人物とされる。「後世には観音菩薩(ぼさつ)の化身、浄土への導き手として、信仰の対象にもなってきました」。仏教の経典や事典が並ぶ駒沢大(東京都)の一室で、石井さんが力説する。
 こうした聖人説を覆すのが、二十年ほど前から提唱されている「聖徳太子虚構説」だ。日本書紀にある業績を、奈良時代の為政者らによるでっち上げだと否定する。国家の理想の君主像を示す狙いがあったという主張で、歴史教科書の記述にも影響した。
 一方、石井さんは、太子崇拝派も否定派も「当時の文献を熟読してこなかった」とみる。自身は十七条憲法ほか、太子の作とされる文献を、中国や朝鮮半島の同時代の文献と比べながら読み込んできた。
 至った結論は、太子は虚構ではなく「仏教に精通した知識人だった。十七条憲法は、太子の作とみてよい」。語法や文章の特徴から、渡来人に深い教養を授けられた倭国人であったと考えられるという。
 東京育ちの石井さんは、高校生のころは学生運動に関心があった。関連書として戦前・戦中の社会主義者についての研究文献を読み込む中で、印象に残ったのは、国家主義へと「転向」した人に、仏教書がきっかけになった例が複数あったこと。「なぜ彼らは、社会主義の信念を覆す魅力を仏教に感じたのか。知りたくなって」。早稲田大に進学し、仏教学を専攻した。
 太子の研究に踏み込んだのは、早稲田大の東洋哲学研究の祖である津田左右吉(一八七三〜一九六一年)への敬意からだ。戦時下の「学問の良心」を象徴する学者と評される人物。<古事記や日本書紀などの神話は皇室の統治を正当化するための創作だった>。戦前・戦中にこう主張し、右翼から糾弾されて著作が発禁処分となった。
 津田は、十七条憲法なども後世の創作だと訴えた。戦後はこの説が有力になり、太子虚構説の原点にもなった。
 石井さんは、コンピューターを活用した仏教学研究でも知られる。仏典を一字から検索できるデータベース開発にも関わる。日本と中国の文献を簡単に比較できるようになり、自身は、津田と異なる見解に至った。「格段に進歩した研究環境を生かし、津田のように鋭い批判精神で、通説を大胆に疑っていかなければ」
 太子は戦時中、「ゆるんだ政治を立て直した偉人」として国威発揚に利用された。翻って戦後は平和主義の象徴としてもてはやされた。「それぞれの時代の人々は、自分たちの理想を太子に映し、シンボルとして利用してきました」
 では、石井さんには、どんな太子像が見えるのか。「謙虚なようでかなりの自信家なんです」。太子が著したとされる法華経の注釈書では、経文の語順に「少し倒(とう)ぜり(文字の順序が間違っている)」とけちをつけている。十七条憲法の条文<和をもって貴(たっと)しとなす>に出てくる<和>も、本来は儒教に基づく考え方だが、太子自身が帰依する仏教に引き寄せた解釈が示されているとみる。
 「経文を否定し、儒教の解釈も変えてしまう。自分の判断が優先の人だったのでは」。意外なほど人間味にあふれる太子像が浮かんでくる。
 「太子は何者か、という問いに答えることは、私たちの時代を、私たち自身を考えること」。学問の自由が封殺される時代に逆戻りさせないためにも、実像に迫り続ける。 (林啓太)

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