日比谷線脱線あす20年 妻の名、現場に残さない 夫、慰霊碑記銘せず「いまも心の中に」

2020年3月7日 02時00分

日比谷線脱線事故の慰霊碑。奥の石壁にある碑文には犠牲者1人の名前が今も刻まれていない

 東京都目黒区上目黒一の東京メトロ日比谷線の線路脇に、四人の名を刻んだ銅板がある。二〇〇〇年三月八日に起きた脱線事故で命を落とした人たちの慰霊碑だ。犠牲者は五人だが、ただ一人、目黒区の会社員女性=当時(37)=は遺族の意向で記銘されなかった。事故から二十年を前に、婚姻届を出してから八カ月で最愛の妻を失った男性(61)が初めて、その理由を語った。 (奥村圭吾)
 事故のあった八日朝、イベントプロデューサーをしていた男性は出勤する妻を中目黒駅へ車で送った。「今日の夕食は一緒にできるわね」と笑顔でお礼を言うと、緑色のセーターを着てスプリングコートを手に持ち、改札へ駆けて行った。
 男性が家に戻って仕事の資料を整理していると、脱線事故のニュース速報が流れ、嫌な予感がして再び車で中目黒駅へ向かった。駅で救急隊員から数人が救急搬送されていると聞き、あてもなく近くの国立東京第二病院(現・独立行政法人国立病院機構東京医療センター)へ。そこで意識不明の重体となった妻と対面した。まもなく妻は旅立った。
 「妻は苦しみましたか」。担当医師に質問すると、「意識は一瞬でなくなっているんだと思います」と答えが返ってきた。その言葉がせめてもの救いだった。
 事故の後、喪失感が深く、結婚生活を送っていた自宅を引き払った。数カ月したある日、営団地下鉄(現東京メトロ)から慰霊碑建立の話を聞いた。男性は「これ以上ない苦しみを生み出した場所。妻の名前を残すことはできない」と考え、反対した。
 ただ、他の遺族が五人そろっての慰霊を望むかもしれないと、本名ではなく戒名を載せることも考えた。悩んだ末、「あの忌まわしい現場に妻一人を残してはおけない」と記銘を拒否した。そのときの決断は、今でも正しいと思っている。
 あれから二十年。心の平穏を求めて仏教の教えに触れ、薄皮が一枚一枚はがれるように少しずつ苦しみが癒えてきたと感じる。「時の流れのおかげ。これも仏の慈悲らしいよね」と穏やかな表情で続けた。「愛する妻を一日たりとも忘れた日はありません。ずっと、あの日のまま。妻はいつも私の心の中にいるんです」
 事故現場には、事故が起きた日に行ったきり、一度も足を運んでいない。男性は「メトロを恨んでいるわけではない。むしろ、遺族の対応をしてくれた社員の方々には救われ、感謝している」と話す。一方、最愛の妻を奪われた経験から「二度とあのような事故を起こさないよう安全、正確、確実に運行してほしい」と厳しい目を向けた。

慰霊碑は事故現場にある=いずれも東京都目黒区で

<地下鉄日比谷線脱線事故> 2000年3月8日午前9時ごろ、営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線の北千住発菊名行き下り電車最後尾の8両目が、中目黒駅近くのカーブで脱線。上り電車の5、6両目に衝突し、17~37歳の男女5人が死亡、負傷者64人を出した。運輸省鉄道事故調査検討会(当時)は、車輪にかかる荷重のアンバランスなど複数の要因が重なり、車輪がレールに乗り上げて脱線したと結論づけた。警視庁は、業務上過失致死傷などの疑いで、レールの保守・管理を担当していた営団工務部の職員5人を書類送検。東京地検は「事故の予見は困難だった」として不起訴(嫌疑不十分)とした。

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