<近代茨城の肖像>(7)横山大観 逆境から生まれた巨匠

2022年5月8日 16時37分

勲章を身に着けた晩年の横山大観(水戸市立博物館提供)

 《明治元年、水戸藩内の動乱は日ごとに激しさを増し、九月半ばには、ついに水戸城下は惨憺(さんたん)たる兵乱の巷(ちまた)となった。流弾の中を追い立てられた母は、とある竹林に逃げこみ、そこで私を生んだのである。》(大意)
 日本の近代美術を代表する画家・横山大観(よこやまたいかん)が後年、自叙伝に記した有名な一節です。
 「画聖(がせい)」とたたえられた大観は、明治元年九月十八日(八月との説も)、水戸城下三ノ町(現在の水戸市城東)で水戸藩士・酒井捨彦(すてひこ)の長男として誕生。北陸地方や水戸の弘道館を舞台に、水戸藩の熾烈(しれつ)な内部抗争が最期の局面を迎えていたころでした。まさに風雲急を告げる時代と場所において、その生をうけたのです。
 幼名は秀蔵(ひでぞう)で、後に秀松(ひでまつ)、秀麿(ひでまろ)と改名。明治二十一年に母方の縁戚・横山家の養子となり、二十九年ごろから「大観」の雅号を使用しています。
 父捨彦が、内乱で敗れ去る水戸藩門閥派(諸生(しょせい)党)の巨頭・市川三左衛門の旗下で戦った経歴が災いしたのか、戊辰戦争後の酒井家は県内各所を転々。明治十一年、まるで追われるように一家で上京します。
 逆境の中、一族に絵図や文学に秀でた者が多かった大観は、次第に絵画の修業を始め、新設の東京美術学校(現・東京芸術大)に入学。人生の大きな転機を迎えます。生涯、師と仰ぐことになる校長・岡倉天心(おかくらてんしん)と出会ったのです。その東洋的な思想、日本及び東洋美術の保存と研究へ懸ける情熱などに影響を受けつつ、日本美術院の創立や五浦(いづら)(現在の北茨城市五浦地区)移転といった重要な機会を共にし、新しい日本画の創造という理想に邁進(まいしん)していきます。
 天心の死後は、解散状態だった日本美術院の再興を主導し、皇室御用品なども手掛けるように。昭和に入ると、イタリア・ローマでの日本美術展覧会に美術家代表として参加し、帝室技芸員や帝国芸術院会員、日本美術報国会会長にも就任、第一回文化勲章を受章するなど、名実ともに画壇の第一人者へと登りつめました。
 没線彩画(いわゆる朦朧(もうろう)体)や片ぼかしといった独特の画法を編み出し、生涯に約二万点という膨大な作品を残した大観。「死して滅びざるものを残したい」という晩年の言葉通り、「生々流転(せいせいるてん)」(重要文化財)や「無我(むが)」「屈原(くつげん)」「夜桜(よざくら)」など数多くの名作が、現在でも鑑賞する者を魅了してやみません。
 中でも画業三十年の節目、大正十二年の大作「生々流転」は、発表直後に関東大震災に遭遇したというドラマ性も相まって、代表作として知られています。一滴の雫(しずく)が川となり海へと注ぎ、それが雲となって天に昇り、再び一滴の雫に戻る。人間すら全くの脇役にすぎない−。東洋的で壮大な生命観、世界観を、四〇・七メートルという長大な絵巻物として表現したのです。
 「(大観の画業で)これ以上何を描くというのか」とまで言われた傑作。しかし、昭和二十年八月に敗戦を迎え、人々が絶望の淵に打ちひしがれていたころ、大観は「今こそ《第二の生々流転》を描く時だ」と述べたといいます。その構想が実現することはなく、昭和三十三年二月二十六日、約九十年の生涯を閉じました。
 戦後の焼け跡から復興を果たした日本、そして今なお戦乱が絶えない世界の情勢を、東京・谷中霊園に眠る大観はどのように見つめているでしょうか。(県立歴史館首席研究員・石井裕)=毎月第二日曜日掲載

関連キーワード


おすすめ情報