東京大空襲の体験者で専門家…亡くなった早乙女勝元さん 「民は置き去り」穏やかな口調に秘めた思い

2022年5月12日 06時00分
 東京大空襲を体験し、戦争の実態を語り続けた作家の早乙女さおとめ勝元かつもとさんが10日、90歳で死去した。早乙女さんに初めて会ったのは戦後60年の2005年。東京大空襲被害者が訴訟を起こすとの記事に賛同する早乙女さんの投書がきっかけだった。穏やかな語り口は、話題が元軍人への巨額の補償になると一転。「民間人はゼロなんです。ゼロでは比較すらできませんよね」と熱を帯びた。(橋本誠)

自身の戦争体験などを語る早乙女勝元さん=2019年8月15日、東京都江東区の東京大空襲・戦災資料センターで

 戦時中「民草」と呼ばれた民間人に寄り添う姿勢は、被害者の徹底した聞き取りに根差している。1945年3月10日の東京大空襲で家族4人を失い、同年8月に右手を切断された女性に会った際は「踏まれたり蹴られたり、これほどまでにさんざんな目に遭わねばならないとは」と驚いたという。横浜空襲で顔にケロイドを負った女性が亡くなったときは、「たまたまあなたは運が悪かったと言わんばかり。民主主義と言っても、民は置き去りなんです」と政府を批判した。
 調査を怠る国に代わり、東京大空襲の死者を「10万人」と算出。訴訟の証人尋問では体験談に加え、米軍の作戦や、火葬できない遺体の公園への仮埋葬なども証言した。空襲の体験者と同時に、専門家でもある希有けうな存在だった。
 「聞いた以上は、伝える責任がある」と晩年も出版や講演を続けた。「私はなぜか生き残った。生き残らせてやるから語り継いでくれるかね、と言われたと思っています」。米寿を祝う会でそう語った言葉に、抱えてきた思いを感じる。国会の被害者救済法案の行方も見届けたかっただろう。
 長女の愛さんによると、空襲が続くロシアのウクライナ侵攻にも、「この戦争はどうにかならんのか」と心を痛めていたという。最後まで平和を求め続けた生涯だった。

追悼のため早乙女勝元さんがあいさつする開館時の写真パネルを展示した東京大空襲・戦災資料センター

◆東京大空襲センターで追悼のパネル展示

 戦争の惨禍を伝えるため早乙女勝元さんが創設した「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)では11日、2002年3月9日のセンター開館式であいさつする早乙女さんが写るパネルを展示し、追悼の意を表した。
 センター事務局の石田博美さん(63)は、早乙女さんが子どもたちに優しく語りかけていた姿を記憶する。「ソフトでありながら『絶対に戦争はしてはならない』という強さがありました」。家族によると、最近は、ロシアのウクライナ侵攻に心を痛めており、早乙女さんは「一刻も早く止めないと何世代にもわたって悲しみが続くことになる」と話したという。
 館長業務を19年に引き継いだ吉田裕館長(67)=一橋大名誉教授、日本近現代史=は「民衆の戦争体験をきちっと記録する活動を始め、運動を広げた人。東京大空襲の存在を国内外に認知させた役割は大きい」とたたえる。紙芝居を制作するなど、若い世代に戦争体験を少しでも分かりやすく伝える工夫に情熱を傾けた姿が印象深いという。
 東京大空襲で祖母ときょうだい4人を亡くした東京都葛飾区の船渡和代さん(89)は、早乙女さんとは半世紀のつきあい。著書「東京大空襲」に刺激を受けた。「文章が穏やかで、まるで下町のお兄ちゃんと話しているよう。自分もこういうふうに発信しなければと思っている」と、遺志の継承を誓った。(三宅千智、井上靖史)

◆寅さんを柴又に呼んだのも…

 足立区で生まれ育った早乙女さんは、20代、30代のころ葛飾区で暮らした。親交のあった山田洋次監督を葛飾柴又に案内し、国民的人気映画「男はつらいよ」シリーズの舞台となるきっかけをつくったとされる。
 本紙連載「わが街わが友」では「とらさんの登場で全国にその名を知られた柴又の帝釈天だが、それはスタッフが足を棒にして探し出したというのはうそで、監督を最初に案内したのは私である」と書いている。戦時中、旧満州で暮らした山田監督には、草団子や土産物店が並ぶ風情ある街並みが珍しく映ったらしく、気に入ってもらえたという。
 早乙女さんが山田監督とよく立ち寄り、おでんや茶飯を食べたという団子店兼飲食店「高木屋老舗ろうほ」を営む石川宏太さん(69)は「早乙女さんは柴又の人間にとって救世主で、大恩人だった」と悼む。「早乙女さんがいなければ映画は存在せず、昔ながらの街並みを残すことはできなかった。柴又を変えないよう、守っていきたい」と話した。(太田理英子)

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