mother(1957年) 最初に撮った母「最高傑作」<一枚のものがたり>写真家・鋤田正義さん

2022年5月14日 07時13分

mother<1957年> ©Sukita

 かつて石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれたころ、筑豊炭田北部の福岡県直方(のおがた)市で化粧品兼小間物店を営む写真家鋤田(すきた)正義(84)の実家は大店(おおだな)で、よく繁盛した。その店に影が差すのは、終戦直後のことだった。
 中国戦線に従軍していた父武友が八月十七日、敵に銃撃されて命を落とした。三十五歳。終戦の知らせが届かず、戦い続けた末の戦死だったという。
 大黒柱を失った店を切り盛りしたのは、母ミツ=写真=だった。四人の子を育てながら懸命に働く。次男の鋤田もよく店番をした。商店街をゆく人々を観察し、知らず知らず眼力が育まれた。
 美しい母を目当てに、店によく男性が立ち寄った。「結婚したら」。小学校高学年のころ、鋤田が何げなく口にした時のことだ。いきなりバシッと頬を張られた。「無言でした。一人で子供を育てるには、強さがないといけない。ふだんは優しい母でしたが、その強さが染みました」
 少年時代、ラジオ作りに熱中した鋤田は、手製のラジオでよく洋楽を聴いた。好奇心が強くて好きなことには集中するが、試験勉強はしない。案の定、大学受験に失敗し、長崎の予備校に通うことになった。この時、同じ下宿に写真好きの造船所に勤める男性がいたことが、運命を変えた。
 男性が持っていた写真雑誌を次々に読破した。写真への興味が強まると、カメラが欲しくなる。母に話すと、苦しい家計を何とかやりくりして二眼レフのカメラ「リコーフレックス」を買ってくれた。一九五七年八月、初めて手にしたそのカメラで母を撮った。
 初盆を迎えた家々を回って亡き人々を供養する、直方伝統の「日若踊(ひわかおどり)」。その装束を身につけ、笠(かさ)をかぶって縁側に腰掛けた母の上半身を真横から撮った。
 発表もしないし、投稿もしない。ただ、大切な一枚として手元に残した。
 大学受験に再び失敗した鋤田は、大阪の日本写真専門学校(現日本写真映像専門学校)に進学。卒業後、大阪の写真家・棚橋紫水(しすい)に師事する。そのころ、問屋街で商品を仕入れるため、母が時々やってきた。仕入れが終わると、待ち合わせて一緒に夕食を食べる。
 「夜行で来て、夜行で帰ります。乗り物酔いが強い母には、大変だったと思います。唯一の楽しみは僕と会えることでした」
 広告会社時代に広告写真で頭角を現した鋤田は上京後、ファッションブランドの仕事などを経て、七〇年に独立。音楽アーティストの撮影などで活躍し、日本を代表する写真家の一人となる。稼げるようになった鋤田は、感謝を込めて母に仕送りを続けた。

デビッド・ボウイは鋤田を信頼し、40年以上にわたって撮影を委ねた ⓒSukita

 鋤田の仕事の中でも、よく知られているのがアルバム「ヒーローズ」のジャケットなどデビッド・ボウイの写真だ。七二年にロンドンで撮影してから二〇一六年の死まで、四十年以上撮りつづけた。「全部撮ろう、芯まで撮ろうという気持ちでした」
 写真家としての原点となった母の写真が公にされたのは撮影から三十四年後、一九九一年のことだった。雑誌「広告批評」から「私の<愛の一枚>」というテーマで依頼を受け、長く眠っていた母の写真を出すことにした。
 「恥ずかしかったんですが、愛を感じさせる一枚だなと。母の思い出が全部入っている写真ですから」
 二〇一四年に富士フイルムが企画した「日本の写真史を飾った写真家の『私の一枚』」にも、ボウイではなく母の写真を選んだ。
 「悩みましたが、写真って個人的なものだと思うんです。いま考えても、これが私の最高傑作です」
 最後まで独り身を貫いた母は二〇〇一年、八十五歳で逝った。残された通帳には、鋤田からの仕送りがそっくりそのまま残されていた。 (敬称略)

写真家・鋤田正義さん 中西祥子撮影

 一枚の写真の背後には、時に思いもかけないドラマや、忘れることのできない思い出が隠れています。一線で活躍する写真家から名もなき市井の人々まで、さまざまな人が印画紙に刻んだ「一枚のものがたり」をひもといていきます。 (第2、第5土曜日に掲載します。次回は6月11日です)

 文・加古陽治

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