Y字橋 佐藤洋二郎著

2022年5月15日 07時00分

◆人生なにもないのが幸福
[評]重里徹也(聖徳大教授・文芸評論家)

 人生について、しみじみと考えさせられる短編集だ。六編が収められていて、いずれも、老いを迎えた男性が主人公で、共通した人物のようにも読める。ふとしたことから過去がよみがえり、記憶の底が照らし出される。それがなんていうか、生きる意味を問いかけてくるようなのだ。
 たとえば、知人が捨てた女性に、無理心中に引き込まれそうになった思い出。居酒屋で偶然に見てしまった女将(おかみ)の情事。競馬場では見知らぬ男にだまされたこともあった。それらがある部分は鮮やかに、別の部分はぼんやりと頭に浮かんで来る。
 主人公は穏やかだ。過去と現在を往来しながら、心に荒波が立っても、そのうちに消えていく。そのさまに彼が生きて来た春秋を感じさせる。けれども、彼は決して無口ではなく、よく人と語り合う。ただ、口癖は「どうかな」「どうだろう」といった言葉だ。相手と自分に静かに問いかける。会話の流れをいったん止めて、再び動きだす感じ。それがいい。
 語り合う延長上には答えのない問いが待っている。人の幸せとは何か。生まれてきたことは喜ぶべきことなのか。人と人はどのように交わればいいのか。そんな難問を読者も緩やかに尋ねられているような思いに襲われる。だから、少し間を取って、空や海や樹木でも見ながら、答えを保留したくなる。どうかな。どうだろう。
 主人公と結婚して長いらしい妻が登場するたびに、場面が落ち着いた明るさを取り戻す。丁寧な口調の礼儀正しい女性で、吹っ切れた性格を思わせる。主人公との息の合った会話は、時にリズミカルに弾むが、確かな調子があって、落ち着いている。
 主人公が「幸福ってなんだろうな」と尋ねると、妻は「なにもないのが幸福じゃないんですか」と返す場面がある。世の中、つらいことや苦しいことばかりなので、なにもないのが幸福だというのだ。この地面に近い低い視点が、各作品に一貫していて、一冊全体の空気を形作っている。
(鳥影社・1760円)
1949年生まれ。作家。著書『夏至祭』『岬の蛍』『イギリス山』など多数。 

◆もう1冊

佐藤洋二郎著『新版 小説の作法』(ジョルダンブックス、品切れ)

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