<再発見!伊豆学講座>南条氏と鎌倉幕府 武将にならず宗教の道へ

2022年5月15日 07時09分

北山本門寺=富士宮市で

 鎌倉北条氏の家臣で、南条郷(伊豆の国市)に居住し、鎌倉幕府に仕えた御家人に南条氏がいる。後北条時代(戦国時代)、その末裔(まつえい)には南条郷の国衆や上白岩村(伊豆市)の地侍、伊豆国の地侍らがいたと思われる。頼朝が伊豆の蛭ケ島(伊豆の国市)に流されている時、北や西の北条・南の南条が頼朝を監視していたと思われる。その後、北条氏が鎌倉幕府の執権に就いたことにより、御家人に名を連ねることになった。
 伊豆の地誌を記した「増訂豆州志稿」によると、「真名本曾我物語」に南条家の一員とみられる南条小太郎が源頼朝の伊豆奥野(伊東市)の狩りに従い、駿州富士野の狩りには六番の射手に加わるとある。元弘三(一三三三)年八月十日に到着と知らせる書状にも、南条四郎左衛門時綱という名もある。
 建治元(一二七五)年五月、京都六条八幡宮の造営料を負担した伊豆の御家人七人の中に「南条七郎左衛門入道(時員(ときかず)か)三貫」とある(六条八幡宮文書、「静岡県史 資料編8」)。承久三(一二二一)年の承久の乱に際し、南条時員が京都に向けて出発する北条泰時(後に鎌倉幕府三代執権)に従っている(「吾妻鏡」)。時光が伊豆の住人であったか定かではないが、これらの文献などから、伊豆出身と考えたい。
 鎌倉幕府の御家人に、北条氏直系の家臣ともいわれる平氏の南条兵衛七郎次郎平時光(なんじょうひょうえしちろうじろうたいらのときみつ)(南条時光)がいる。生年は正元元(一二五九)年、没年は元弘二(一三三二)年。時光は、日蓮宗の宗祖日蓮と高弟日興の信奉者で、日興の第一の弟子となった。父は鎌倉番役出仕中、日蓮に帰依したが病没。文永二〜三(一二六五〜六六)年ごろ、亡父の墓参に訪れた日蓮に会ったといわれるが、その師檀関係は同十一(一二七四)年の日蓮の身延入山直後に再結された。
 日蓮は駿河在住の日興を南条家に遣わして、その結びつきを図り、時光は駿河における彼らの教えの代表的信奉者となった。しばしば身延に日蓮を訪ねて供養の品を届け、日蓮も最晩年の弘安五(一二八二)年には、時光宛てに度々書状を送り、訪問もしたらしい。
 時光は後に入道して沙弥大行(さやだいぎょう)と称した(「静岡県史 資料編5」)。正応元(一二八八)年、それまで日蓮の廟所(びょうじょ)を守っていた日興が身延を去ると、自家の持仏堂を提供。さらに同三(一二九〇)年には大石ケ原(おおいしがはら)(富士宮市)に大石寺(たいせきじ)を創建、ここに日興を招き入れた。永仁六(一二九八)年には日興の発願(ほつがん)にこたえ、おいの石川孫三郎らとともに、近くの重須の地に日蓮宗大本山の北山本門寺を創建している。
 伊豆新田氏や駿河石川氏と姻戚関係にあり、時光のおいの日目(にちもく)や外孫の日道(にちどう)、日行らがそれぞれ大石寺住持職(じゅうじしき)(日蓮宗の僧の高い位)を継承しているように、日蓮の教えを信奉したのみならず、日興門流の発展にも寄与した。
 なお延慶(えんぎょう)二(一三〇九)年二月二十三日、時光は伊豆国南条南方武正名内の所領を自筆をもって、南条三郎に譲っている(大石寺文書)。時光はのち駿河国富士郡上野郷(富士宮市)を本拠としたと思われる。日蓮は「上野殿」と呼んでいたという。
 北条義時(後の二代執権)をはじめとする伊豆の土豪が頼朝に頼って武将になり、鎌倉で活躍するようになった。その一方で、南条氏は武将にはならず、宗教の道を選んだのではないかと考える。(橋本敬之=伊豆学研究会理事長)

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