五・一五事件から90年 小山・帝京大教授に聞く 背景に「格差拡大という現代との共通項」 実行犯に甘かった新聞に責任も

2022年5月16日 06時00分
 1932年5月15日、海軍青年将校らが犬養毅首相を殺害したクーデター未遂事件「五・一五事件」から90年を迎えた。政党政治家へのテロは軍部の台頭と専横を招き、議会制民主主義を崩壊させる重大な端緒となった。事件研究の第一人者の小山俊樹・帝京大教授は、背景を「格差拡大や社会不安の増大という現代との共通項もあった。実行犯に甘かった新聞の影響も小さくない」と語る。(小松田健一)

五・一五事件 海軍青年将校や陸軍士官候補生、政治塾構成員らが首相官邸、警視庁、日本銀行などを襲撃し、犬養毅首相と首相官邸を警備する警察官1人が殺害された。後継首相に海軍出身の斎藤まことが就任し、当時の2大政党が首相を出す「憲政の常道」が終わる。軍人の実行犯は軍刑法の反乱罪で起訴されたが、首謀者は法定刑が死刑しかないにもかかわらず禁錮15年など、判決は各被告とも求刑より大幅に軽かった。

五・一五事件について話す帝京大の小山俊樹教授=東京都八王子市の帝京大八王子キャンパスで

―事件によって政党政治が終焉したと一般的には理解されています。
 政党政治が終わり、戦後まで復活しなかったのは事実ですが、なぜかは曖昧にされてきました。犬養亡き後、与党の政友会が引き続き政権を担うことに対して、ロンドン海軍軍縮会議(30年)の結果に不満だった軍部の意向で、後継は軍人出身の首相となったというのが通説です。しかし、政党に不信感を持つ人びとはほかにもいました。
―それは誰ですか。
 決定打は昭和天皇だと思います。犬養の後継として政友会の総裁となった鈴木喜三郎は党利党略で官僚人事を行ってきました。牧野伸顕内大臣ら宮中の重臣は「鈴木首相」はだめだと判断したのです。
 それが昭和天皇の意向にどの程度影響したかは分かりませんが、指導者は私的利益ではなく、国家のために働くべきだとの気持ちがあり、政党政治をいったんやめてはどうかと提案したのではないかと考えます。
―当時は満州事変発生の翌年で、日本は国際的にも難しい立場でした。そして、昭和恐慌のさなかです。
 例えばこの時期、南満州鉄道の幹部人事をめぐって政友会内部がもめます。昭和天皇は中国大陸が大変なことになっているのに、政党政治家が自分のことしか考えないことに納得していなかったのでしょう。そこで、穏健派の海軍出身者が後継首相となることに満足したのだと思います。
 また、犬養内閣は恐慌への十分な処方箋を出すことができず、一部特権階級だけが蓄財することに国民の不満が高まっていました。実行犯の海軍青年将校たちは、自らが立ち上がれば国民たちも立ち上がると考えたのです。犬養は特権階級の象徴として犠牲になったとも言えます。
―世論は実行犯に同情的で、新聞もそれを後押しします。
 当時の新聞には「憂国の至情」といった情緒的な言葉が並びます。信濃毎日新聞の桐生悠々や、福岡日日新聞(現在の西日本新聞)の菊竹六鼓のように、テロを非難する新聞人もいましたが少数派でした。世論が盛り上がる中、水を差す論調は難しかったのでしょう。満州事変で新聞が売れたので、軍から戦争の情報をもらうために迎合した面もあったと思います。

実行犯の海軍青年将校に対する軍法会議の反響を報じる1933年8月6日付の「国民新聞」(東京新聞の前身の1つ)。「減刑運動 猛然起る」など、青年将校たちに同情的な見出しが並ぶ

―現代にどのような教訓を残したのでしょうか。
 事件がなぜ人びとの関心を集めたかというと、政治に対して公の利益、国民のことを優先してほしいという考え方が共有されていたからだと思います。それを政治家ではなく、実行犯たちに見たのです。つまり、一部の人の利益だけを追求する政治は良くないということです。
 若い人たちがこれからどうすればいいか、道しるべを示すのが政治でしょう。テロリズムは絶望の末に現れます。若い人に絶望を与えてはいけない。これが事件から得られる最大の教訓ではないでしょうか。

こやま・としき 京都大文学部卒、京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。帝京大文学部専任講師、准教授を経て現職。専門は日本近現代史。2020年に「五・一五事件 海軍青年将校たちの『昭和維新』」(中公新書)でサントリー学芸賞受賞。46歳

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