<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(8) 「鬼」の裏に繊細さ

2020年2月20日 16時00分

1978年11月、岡山県井原市でママさんバレーの指導をする大松博文(中央右)。この直後帰らぬ人となった=賀川幸子さん提供

 「お願い、ボールを上げて。最後の一本を打ちたいんや」
 東京五輪女子バレーボール金メダルが決まるマッチポイント。アタッカーだった谷田絹子(80)は、主将の河西(かさい)昌枝(故人)に声を張り上げたのを覚えている。
 次の瞬間、ソ連(当時)がオーバーネットの反則をして日本に得点。谷田は肩透かしを食ったが、試合終了。セットカウント3-0の快勝だった。「解放感」。谷田はそのときの率直な感情を記憶している。
 試合直後、選手控室を訪れた監督の大松博文の次女緑(65)も、父を見た時の第一印象は「ほっとしていた」だった。
 「心配性で、気が小さかった」というのが、緑が見る父の性格。バレーの第一線を退いた後の講演活動でも、事前に「手帳に小さい数字を書き込んでいた」という。言い間違いを防ぐため、入念な準備をしなければ気が済まなかった。
 五輪後、大日本紡績(日紡)貝塚の監督をやめ、会社も去った大松。引退する「東洋の魔女」主力の多くに、結婚相手を探す義理堅さもみせている。
 特に三十一歳で主将を務めた河西の相手探しでは、当時首相の佐藤栄作に金メダルの報告に訪れた際、自ら依頼。五輪翌年の一九六五(昭和四十)年、河西は佐藤夫妻を媒酌人に、自衛官の男性と結ばれた。
 佐藤の後押しを受け、大松は六八年、自民党から参院選全国区に出馬、当選している。一期六年しか続かなかった議員生活で、活動の目玉にしたのが「ママさんバレー」普及だった。

元首相の佐藤栄作(右)と大松博文=義妹の大松美恵子さん提供

 日本代表を「大松一家」と自負し、世界に示した団結力。主婦にもバレーが広がれば「お母さんの息抜きや体力づくりになり、家庭円満にもつながる」と、私設秘書だった丸井亘(75)は意気込みを聞いている。
 その理想は自らの家庭に届いていたのか。次女緑の見方は厳しい。
 大松より十歳若い母の美智代(故人)から聞いたのは、「新婚旅行の行き先は(栃木県の)日紡足利工場」。大松はそこで「バレーを教えていた」という。
 年末年始の三日間しか休まない大松は、正月に家族で温泉に行っても寝ているだけ。観光に連れていってくれたのは母。父と写った家族写真もない。
 「わたしは家庭の幸福の破壊者」。大松は自著「おれについてこい!」で後ろめたさを記しつつ、楽観的にこう続けている。
 「家にあって苦しんだ妻も、世界一になったバレーにつながる思い出に生きることになるでしょう」
 大松は五十七歳で突然、この世を去る間際まで、バレーにまい進する。七八年十一月二十三日。その日も岡山県井原市の高校体育館で、主婦ら八十人相手にボールを打ち込んでいた。
 「回転レシーブもさせられ、苦しい練習でしたが、『あんた、いいよ』と励ましてもらった」。練習に参加した川合周子(かねこ)(86)は、大松の生涯最後となる指導を思い出す。
 その晩、大松は旅館で夕食後、自室で苦しさを訴え救急搬送され、翌日未明に帰らぬ人となった。心筋梗塞だった。
 「ボールを通じ、言葉にならない先生の気持ちを想像した」。大松の選挙も手伝った元日本代表のメンバー藤本佑子(77)は、寡黙だった大松との以心伝心ぶりを振り返る。
 濃密な師弟関係でしか通じにくい繊細さが、逆に世の中に「鬼」の虚像を膨らませる。
 次女緑には、二〇一六年十二月に亡くなった母が死の直前、あの世の大松を思いつぶやいた言葉が、今も耳に残っている。
 「あの人は夢に出てこない。死ぬときも迎えにきてくれないのね」
  (敬称略、選手名は旧姓)=第二部おわり
 (阿部伸哉、小倉貞俊、武藤周吉が担当しました)
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