身の回りの音に耳すます 『ふりかえる日(ひ)、日(び) めいのレッスン』 早稲田大教授・小沼純一さん(62)

2022年5月22日 07時00分
 未知の音を聞いた瞬間の驚きを、幼いころの記憶から呼び覚ますような小説。小学生の「サイェ」は不思議な雰囲気の女の子。伯父である「わたし」の家に遊びに来ては、ソファに座ってぼんやりとしている。一人で繰り返しているのは、発声の練習。口をすぼめ、またはぱっと大きく開けて音を出したり。のどを鳴らしてみたり。<ソファのうえでひとり、じぶんのなかにある音を、まわりにある音をきいている>
 街路樹にとまる鳥のさえずりや、虫の音、誰かの小声、自身の吐息にもじっと耳を傾け、真っさらな心で受け止めて、サイェは音を習得していく。
 「創作を書くと、どうしてもそっちの話になってしまう」と苦笑いの小沼さん。音楽文化論が専門の研究者であり、芸術分野の批評活動でも知られる。音へのこだわりは表現にも表れていて、話し言葉の口調を文字に起こしたような柔らかな文体に、句読点を頻繁に打ったり行間を設けたりして「とつとつとしゃべる感じ」を出した。表音文字であるひらがなを多く使い、登場人物のつぶやきや会話の再現に効果的だ。
 サイェは庭の藤棚の下に立ち、花の間を飛び回るハチの羽音を、レコーダーで録音しようと試みる。これは小沼さんの十代のころの姿の投影でもある。外界の音への興味は今も変わらず、街中の雑踏に身を置いては、全方位から伝わる多種多様な音に耳をすますという。「確かに今は、スマホでいろいろな音楽を聴けるようになった。でも世の中はもっと豊かな音であふれている」
 クラシック音楽からポップス、現代音楽までの音楽史に精通しているが、いつも関心の中心にあるのは、音体験そのものの探究。大学では学生に、屋外でどんな音が聞こえたかを書き留めさせたりしている。ありふれた音、気にも掛けなかった音の音源を探り、特徴を聞き分ける聴力を養うためだ。
 本書の語り手である「わたし」は、サイェが聞く音を一緒に聞く。風鈴の響きから庭を吹く風の向きや強さをイメージしたり、通りを往来する人の靴音を聞いて街の昔の情景を追想したり。ふとした音が喚起する想像世界を自由にめぐっていく。「身の回りの音を聞き、感じることの大切さをサイェから教わっている」。タイトルの『レッスン』とは、めいから学ぶレッスンのことでもある。青土社・二六四〇円。 (栗原淳)

関連キーワード


おすすめ情報

書く人の新着

記事一覧