<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1) 「鬼の大松」意外な素顔

2020年2月12日 16時00分

松村好子が保管している1964年東京五輪の金メダル。半世紀を経ても色あせない=大阪府枚方市で(佐藤春彦撮影)

 視聴率66・8%は、今も日本のスポーツ中継での最高記録として破られていない。高さ二メートル二四のネットを挟む女性の攻防に、国中がくぎ付けとなっていた。
 一九六四(昭和三十九)年十月二十三日午後七時半すぎ、東京五輪閉会式の前夜、女子バレーボール決勝が駒沢屋内球技場(東京都世田谷区)で始まった。
 「東洋の魔女」と呼ばれた日本代表は、宿敵ソ連(当時)を相手に二セット連取。三セット目も11-3と大量リードしながら、1点差まで追い上げられる。
 コートサイドの指揮官は、腕を組んだまま動じない。彫りの深い顔は、無表情でコートを見据える。「鬼の大松」こと大松博文、このとき四十三歳だった。
 練習が日をまたぐのは当たり前。速射砲のようにボールを投げ付けるレシーブ練習は、見学したプロ野球選手もおののいた。
 14-13のマッチポイントから、なかなか試合を決められない。大松はフェースタオルを片手におもむろに腰を上げ、タイムを取る。
 「おまえら、なに慌ててんのや。落ち着けや」。普段から口数の少ない大松は、諭すようにそれだけ言って引き揚げていったと、コート上にいた松村好子(78)は記憶している。
 試合はソ連選手がネットを越えてボールに触れる反則で、念願の金メダルが決まる。客席を埋めた四千人は総立ちに。控え選手もコート上に飛び出していった。
 ベンチに残ったのは大松だけ。腰を上げ、右腕のジャージーの袖で鼻の下をぬぐうと、再び腰を下ろして視線を宙に泳がせる映像が残っている。
 その姿に会場で見入っていたのが、当時三十二歳の作家、石原慎太郎。新聞に寄せた観戦記で「澄んださびしげなほどの表情」と書いた。それは「鬼」と言われた男がのぞかせた、素の繊細さだった。

◆幼少期 優しい「お嬢」

練習中に険しい表情を見せる大松博文=香川県宇多津町教育委員会提供

 金メダルを決めた後の、あの寂しげな表情は何だったのか。心に引っ掛かっていたのは、新進気鋭の芥川賞作家だけではなかった。
 東京五輪から二年がたった一九六六(昭和四十一)年の暮れ、東京・新宿駅西口にあった「雷寿司(ずし)」。のれんをくぐってきたブレザー姿の男性客に「あっ」と声を上げそうになったのを、当時修業中の店員だった大小原(だいこはら)貞夫(75)は昨日のように思い出す。
 テレビで何度も目にした東京五輪女子バレーボール代表監督、大松博文その人。優勝を決めた瞬間、表情を崩さず、ベンチに腰掛けたままだった姿が、強烈な印象として残っていた。
 カウンターに席を取った大松のお茶を交換するのを機に、思い切って尋ねる。
 「先生、なぜ勝った瞬間、喜ばなかったんですか」
 大松は大小原の目をまっすぐ見て答えた。「鬼」という世評に似合わない、穏やかなもの言いで。
 「君ね、相手チームがいなければ勝てないんだよ」
 ソ連という好敵手への敬意なのか。国民的英雄となっていた大松を前に舞い上がり、それ以上は聞けなかったが、対戦相手への気遣いだと解釈している。
 普段の大松は、色紙に好んで「根性」「為(な)せば成る」と記し、東京五輪前には自著「おれについてこい!」を出版。五輪後に映画化もされ、タイトルは流行語となった。男くさい言葉で、「鬼」のイメージは深まる一方だった。
 ところが本紙が「東洋の魔女」ら当時の日本代表関係者九人に取材したところ、大松が「おれについてこい」と言ったのを、だれも聞いていない。
 アタッカーだった谷田絹子(80)は「そんなこと言う人じゃないし」と一笑に付す。練習の厳しさから「周りの人が語った言葉やね」と言い切る。大松の怖さは「本当に何もしゃべらない」寡黙さだという。
 むしろ「外見は男っぽいが、内面は女性的だといつも思っていた」と、日本代表メンバーだった半田百合子(79)は振り返る。
 その直感は、大松の生い立ちに裏付けられている。
 「お嬢」。幼少期の大松はそう呼ばれていたと、今も大松の生家に住む義妹の美恵子(90)が明かした。

大松の墓の隣にある石碑。バレーボールをかたどり「根性」と刻まれている=神奈川県鎌倉市の東慶寺で

 大松の故郷は、瀬戸内海に面する香川県宇多津(うたづ)町。父は小学校の校長と町長を歴任する名望家だった。言葉遣いが丁寧な家庭で、大松のきょうだいは弟一人のほかは、姉一人、妹三人。女性に囲まれる環境には慣れていた。
 「それは優しい子どもだったそうです」。美恵子は幼い大松について、親族からそう伝え聞いている。
 「お嬢」から「鬼」へ。その間には、苛烈な戦争体験が横たわっている。 (敬称略、選手名は旧姓)
<だいまつ・ひろぶみ> 1921(大正10)年2月12日、香川県宇多津町生まれ。坂出(さかいで)商業学校(現坂出商業高校)、関西学院高等商業学校(現関西学院大)を経て、41年大日本紡績(日紡、現ユニチカ)に入社。同年末に戦地へ召集され、47年復員。54年日紡貝塚(大阪府貝塚市)バレーボール部監督に就任し、女子日本代表の母体となる強豪に育てる。62年世界選手権、64年東京五輪で優勝。68年の参院選に出馬して初当選し、74年は落選。78年11月24日、心筋梗塞で57歳で亡くなる。名前の読みについて、次女柳沼緑さんは親族間では「ひろふみ」だったと話している。
     ◇
 「東洋の魔女」は、体格で劣る日本人が猛練習によって金メダルを獲得した戦後ニッポンの成功体験となった。指揮官だった大松の遺産は、単なる「しごき」だったのか。その実像を、関係者の証言で見つめ直す。
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