襲名延期2年(上)團十郎とは 300年超、受け継がれる芸と伝統

2022年5月22日 07時20分

團菊祭五月大歌舞伎の「暫」で、鎌倉権五郎役をつとめる市川海老蔵 ©松竹

 江戸歌舞伎の大名跡「市川團十郎」の復活が2年以上遅れている。本来なら東京五輪を間近に控えた2020年5月、市川海老蔵(44)が十三代目を襲名する予定だったが、コロナ禍に見舞われ、襲名披露興行は延期されたままだ。そもそも、なぜ「團十郎」は歌舞伎界において大きな存在なのか? 十二代目が亡くなって9年以上たつが、「團十郎」復活の日はいつになるのか? 上下2回にわたってお届けする。上は主に團十郎の歴史を紹介します。 (山岸利行、谷岡聖史)
 「しーばーらーくー」。東京・銀座の歌舞伎座に海老蔵の声が高らかに響く。花道から舞台へ。かっと目を見開く市川團十郎家伝統の元禄見得(みえ)も迫力だ。
 二十七日までの「團菊祭五月大歌舞伎」で上演中の「暫(しばらく)」は、團十郎家のお家芸「歌舞伎十八番」の中でも高い人気の勧善懲悪の物語。派手な隈(くま)取りに豪華衣装、海老蔵が演じる鎌倉権五郎(ごんごろう)は罪なき人たちをさっそうと救うヒーローだ。コロナ禍でなければ「市川團十郎白猿」を名乗って演じていたはずだった。
 では「團十郎」は、どのような系譜で今日まで受け継がれてきたのか。
 江戸時代初期、出雲の阿国(おくに)が京都で「かぶきおどり」を披露して大盛況となったことが歌舞伎のルーツとされる。その後、主に柔らかみのある演技様式の「和事(わごと)」が特徴的な上方歌舞伎と、豪快で力強い演技「荒事(あらごと)」が特徴的な江戸歌舞伎に分かれて発展。この「荒事」を創始したのが、初代市川團十郎(一六六〇〜一七〇四年)だった。
 権五郎のような英雄譚(たん)で江戸歌舞伎を隆盛に導く一方、初代は子宝に恵まれずにいた。成田山新勝寺(千葉県成田市)にお参りしたところ、子どもを授かったという話があり、同寺との縁は深い。團十郎家の屋号は「成田屋」だ。
 そして、荒事を洗練させたのが二代目(一六八八〜一七五八年)で、「矢の根」などは評判に。江戸の町ではその錦絵を玄関に張って魔よけにしたとも伝えられ、團十郎は舞台役者の領域を飛び出し、町の守護神的な存在になった。
 荒事はもちろん、和事や江戸以前の武家社会を題材にした「時代物」、町人社会を扱った「世話物」などにも卓越したスターも現れた。一人が「市川家中興の祖」といわれる七代目(一七九一〜一八五九年)だ。「歌舞伎十八番」を制定し、台本は家宝として箱に入れて保管。ここから得意な芸や歌を「十八番(おはこ)」と呼ぶようになった。
 九代目(一八三八〜一九〇三年)も舞踊、せりふ回しなどに優れ、「劇聖」と呼ばれた。演劇改革に取り組み、天覧歌舞伎にも出演。團菊祭は、九代目と五代目尾上菊五郎を顕彰すべく一九三六(昭和十一)年に始まった。十一代目(一九〇九〜六五年)は美貌、美声、花のある芸風などで昭和歌舞伎を代表する役者だった。
 初代が演じた「暫」などは今も受け継がれ、三百年超の数々の実績、伝統を誇る。「市川團十郎」が大名跡とされるゆえんだ。上方の坂田藤十郎と並ぶ歌舞伎界の一大ブランドであり、襲名披露も歌舞伎界挙げてのイベントになりそう。

◆江戸の人のよりどころ 識者

 なぜ「市川團十郎」はこれほどの大名跡となったのか。本紙で「歌舞伎評」を担当する歌舞伎研究家の矢内賢二・明治大教授は「江戸の人々のアイデンティティーのよりどころとなったから」と指摘する。
 京都や大坂と並び称された「三都」の中で、最も遅く発展したのが江戸。「新興都市において、團十郎は江戸っ子らしさ、心意気を象徴する存在となり、はやり病や飢饉(ききん)などから民を守るとして神格化されていった」。その特徴を伝える例が、片目は正面を見据え、もう一方の目だけ内側に寄せる「にらみ」だ。團十郎家の襲名披露口上では今も恒例となっている。「團十郎家の芸である荒事には、単なる芝居ではなく、呪術的な面がある」と話す。
 さらに「一代だけでなく、名優が代々出たことも家系の価値をさらに高めた」と矢内さん。十三代目を継ぐことになる海老蔵は、どんな團十郎になるのか。「祖父である十一代目にそっくりだとよく言われ、本人も尊敬していると聞く。同じような路線を進むのではないか」とみる。
<歌舞伎十八番> 制定は1832(天保3)年。「暫」「助六(すけろく)」「勧進帳(かんじんちょう)」=イラスト=など現代まで上演が続く有名な演目がある一方、脚本がなく内容が不明なものもあり、当時の錦絵や評判記を手掛かりに復活上演が試みられている。

 ※下は6月5日掲載予定です。

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