<再発見!伊豆学講座>宇佐美祐茂・宇佐美氏 鎌倉幕府で代々功績か

2022年5月29日 07時51分

城山公園として残る宇佐美城の跡=伊東市で

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて実在した武将に宇佐美祐茂(すけもち)がいる。伊豆国賀茂郡宇佐美(現伊東市)に生まれたとされるが、生没年は不詳。
 名前に「祐」が付くことから連想するのは、伊豆に流された源頼朝の監視役だった伊東祐親(すけちか)である。系図がどこでつながるか不明だが、祐茂は祐親の親族とみられる伊東(工藤)祐継の子といわれる。祐親の子祐清(すけきよ)は、祐親に殺されるところだった頼朝を助けたことから頼朝に従うようになり、伊東家は存続した。
 宇佐美氏については、伊東市宇佐美に残る城山は建久元(一一九〇)年に祐茂が構築したと伝えられているが、祐茂の子祐政(すけまさ)の築ともいわれる。宇佐美氏代々の城跡とされ、付近には子孫のものとされる墓(室町時代以降)もある。
 江戸時代、伊豆の地誌をまとめた「豆州志稿(とうしゅうしこう)」によれば「(祐茂は)従五位下左エ門尉(じゅごいげさえもんのじょう)(官人の位階)に叙す、祐継の子である(工藤)祐経(すけつね)は、はじめは宇佐美に居住、そこで一族を分割した。祐茂は美男子で騎馬・弓に秀でていて、頼朝に従った。(平安後期、平家の目代だった山木)兼隆(かねたか)の代から従軍しなかったことはなく、功績を挙げた。そして、鎌倉幕府の二十五功臣の一人といわれた」との記載がある。
 治承四(一一八〇)年八月の石橋山の合戦に参陣し、平氏追討の時には源範頼に従って、文治元(一一八五)年正月二十六日に工藤祐経・天野遠景(とおかげ)らとともに周防から豊後に渡り、西海で活躍(「吾妻鏡」)。「吾妻鏡」の建久元年正月六日の記載によると、伊豆国宇佐美一族の実政(さねまさ)らが、津軽合戦で藤原泰衡の郎従に殺害されたとある。
 建久三(一一九二)年九月五日、頼朝から相伝の所領と地頭職を安堵(あんど)(公認)されている(「源頼朝下文写」宇佐美文書)。同四(一一九三)年、下野国那須野などへの狩猟には、工藤行光、狩野宗茂、宇佐美祐茂、仁田忠常など二十二人で随行した(「吾妻鏡」)。
 同年の富士の巻狩り(大規模武芸演習)の後、曾我兄弟の仇(あだ)討ちから頼朝に疑惑を持たれていた(異母弟の)源範頼は、家人当麻(たいま)太郎が頼朝の寝床に潜んでいたところを捕らえられたことから同年八月十七日、狩野宗茂や宇佐美祐茂らに預けられ、殺害された。元久二(一二〇五)年の畠山重忠討伐の際には祐茂・狩野介宗茂らが先陣をつとめた(「同」)。
 建暦二(一二一二)年九月十五日、常陸国(茨城県)那珂西の地頭職に任ぜられ(「吾妻鏡」)、承久三(一二二一)年の承久の乱の時、征伐の五陣に筑後太郎左衛門(八田知重)・天野左衛門尉(政景)・狩野介入道(宗茂)らが加わり、伊豆国から伊東左衛門尉(祐時(すけとき))・宇佐美五郎兵衛・宇佐美与一(祐村)が参戦した(「承久記」)。当時、伊豆宇佐美に居住していたと思われる。
 安貞(あんてい)元(一二二七)年六月六日、幕府は常陸国大窪郷地頭代の押妨(おうぼう)(暴力的など不当な行為)を停止し、前地頭伊豆国宇佐美政光の時の例のごとくとあるので、当所の地頭であったことも分かる(「関東下知状案」塙文庫)。
 明応二(一四九三)年、伊勢新九郎に堀越御所(現伊豆の国市韮山)が攻められたとき、宇佐美貞興(能登守)が戦死し、宇佐美氏は絶えたという記述が「曽我物語」などにもある。(橋本敬之=伊豆学研究会理事長)

関連キーワード


おすすめ情報

首都圏ニュースの新着

記事一覧