「見えなくてもいい」と思えるまで

2022年5月31日 14時00分

暗闇で掴むぶ厚い奥襟の 小さな揺れがお前の心 初瀬勇輔

視覚障害者柔道のアスリートと実業家の二足のわらじをはく初瀬勇輔。歌人佐佐木頼綱との出会いを機に短歌の世界にも足を踏み出した。(右)は2008年の北京パラリンピックでの試合風景。(左)は佐佐木とのLINEでのやりとり

 福岡の予備校に通っていた十九歳の時、初瀬勇輔(41)は右目が見えなくなった。長崎県佐世保市の実家で何げなく片目で見ると、視野の中心が大きくくりぬかれたように欠けている。緑内障と診断され、進行を止める手術を受けた。左目が見えるので大きな支障はなかった。
 三浪して東京大を目指したがかなわず、中央大に進んだ。二年の終わりごろのことだった。今度は左目に異変が起きた。
 物がぼやけて見える。原付きバイクで通学する時、信号が見づらい。「疲れているのか、コンタクトが汚れているのか」と思ったが、病院で検査を受けると眼圧が異常に高い。すぐに緊急手術を受けたが、眼帯を外した時、左目も中央が大きく見えなくなっていた。
 母一人子一人の家庭。母が歯科医院の事務などをして、九州有数の中高一貫の進学校に行かせてくれた。目標は弁護士。だが文字を読めず、目の前の人の顔も分からない。昨日できていたことが、全然できない。
 二十四歳にして人生の先が見えなくなり、絶望した。「死んだ方がましだ。死にたい」。母の前で思わず口走った。「もう死んでいいけん、私もあんたと一緒に死ぬけん」。母にそう言われて、われに返った。死んだら親不孝になる、もう少し頑張ってみよう−。
 友人の助けを得て大学生活を続けた。予備校時代の友人が二年間毎日、大学前の駅で待ち、送り迎えや教室間の移動を手伝ってくれた。そのうちに慣れてきて、死の誘惑は遠のいた。
 パラスポーツとの出会いは、そのころのことだ。アテネ・パラリンピックの翌年の二〇〇五年、当時の恋人に「視覚障害者柔道というのがあるらしいよ」と勧められた。高校時代は長崎県で三位になった実力。久しく離れていたが、もう一度やってみようと思った。
 七年ぶりに胴着に身を通し、元パラリンピアンが営む埼玉の牛窪道場の畳に立った。視覚障害者柔道は主審の「組み方」の声を合図に、互いに胴着の襟と袖を掴(つか)んだ状態から始める。「このルールならできる」と手応えを感じた。投げればうれしく、投げられたら悔しい。「畳の上は平らだし、平等でした」
 友人らに頼んで稽古に励み、その年の全日本大会九〇キロ級に出場。すべて一本勝ちで見事優勝し、翌年のフランスの世界選手権の代表に選ばれた。〇八年には北京パラリンピックに出場。アジアの大会で二度優勝し、日本選手権では八一キロ級と合わせて九連覇を果たすなど、長く日本の一線で活躍した。
 順調な競技人生の一方で、就職活動は難航した。百社以上にエントリーして不採用。卒業後の五月にようやく人材派遣会社の子会社に就職できた。その時の苦労が、後に障害者の人事コンサルティングをする会社「ユニバーサルスタイル」を立ち上げる原動力になった。一一年三月、東日本大震災で多くの命が失われた。「同じ明日が来るという保証はない」。そんな思いが強まり、同年十月に会社を退職、十二月に起業した。
 短歌と出会うきっかけは、一七年に歌人佐佐木頼綱(42)と知り合ったことだ。佐佐木が格闘技経験者だったこともあり意気投合し、佐佐木の勧めで歌を作りはじめた。百人一首(<うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを>源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん))に名前と同じ「初瀬」が出てくることから、以前から短歌には関心があった。
 最初に作った歌が<暗闇で掴むぶ厚い奥襟の小さな揺れがお前の心>だった。向き合って互いの前襟を掴む両者。そこから右手を奥襟に移す。ぐっと引きつけると、かすかに相手の体の揺れを感じる。それを心の揺れになぞらえた。経験者でなければ詠めない一首だった。
 歌の魅力に目覚めた初瀬は、時折歌を作るようになる。毎月数時間、音声機能の付いたパソコンで、キーボードを打つ。まずひらがなで作って音を調え、それから漢字に変換していく。歌ができると、メールなどで佐佐木の指導を受けている。
 「短歌は障害があっても楽しめる文化で、三十一音の中ではみんなが平等です。視覚がないからこそ、より肌で、匂いで感じられる」と初瀬は言う。佐佐木も「特に視覚障害者は言葉にする感覚が鋭い。言語表現の可能性を感じる」と話す。パラアスリートの短歌大会や合同歌集ができないか−。二人はいま日本パラリンピック委員会委員長の河合純一(47)と三人で、そんな話をしているという。
 四十歳を過ぎ、初瀬の競技人生は終わりを告げようとしている。「あとは恩返しです。パラスポーツが日本に根付く文化になるかどうか、そのために自分がどう貢献していくか」
 もう一つの夢は、障害者の雇用をよくすることだ。「パラリンピックは拍手の海でしたが、戻ってみると、前と同じ現実があった。給料は高くないし、やりがいのある仕事がない。自分のように困っている人を一人でも少なくしたいんです」。障害者がキャリアアップし、上場企業の社長や役員になれば世界が変わる。人材紹介の仕事を通して、そんな未来を夢見る。
 「ありがとう」と言われた回数が、心を楽にした。仕事とスポーツ、短歌を通じ感謝される、貢献できる、つながっていると感じる瞬間が増え、自分を肯定できるようになった。
 「目が見えるようになる手術があったら、受けますか」。少年院で講演した時、こんな質問を受けた。その時は即答できなかったが、今なら「治らなくていい」と答える。その心は、もう揺るがない。 =敬称略 (加古陽治)

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