勝海舟 大田区だってゆかりの地 晩年に別荘構えた洗足池に記念館

2022年6月1日 07時08分

洗足池の近くにある勝海舟記念館。等身大パネルが迎えてくれる=いずれも大田区で

 江戸末期の幕臣・勝海舟(1823〜99年)といえば、江戸城無血開城の立役者。西郷隆盛と会見した薩摩藩邸があった港区、区役所脇に銅像が立つ出身地の墨田区が有名だが、実は大田区も彼をひもとく重要な場所だ。2019年、「海舟が愛した晩年の地」である洗足池のほとりに全国初の「勝海舟記念館」ができ、研究が進められている。
 「大田区は勝にとって、無血開城の記念の地です」。同館の学芸員星川礼応さんはそう力を込める。

展示品について説明する学芸員の星川礼応さん(撮影のためマスクを外しています)

 館によると、一八六八(慶応四)年三月、港区の薩摩藩邸で行われた西郷・勝の会談で江戸総攻撃中止が決まったが、その後一カ月にわたり、江戸城明け渡しの条件を詰める交渉が続いた。その舞台の一つが、新政府軍の本陣があった池上本門寺(大田区池上)。勝は開城直前の四月九日から二日間、洗足池を経由して同寺での会談に向かったという。
 神経をすり減らしていた勝を池が癒やしたのだろうか、晩年は池近くに別荘を構え、旧幕臣ら友人たちと和歌や漢詩を詠んだり、散歩したりした。
 「郷土の偉人」の功績を伝えようと、区は関係図書を収集していた「旧清明文庫」(国登録有形文化財)を記念館に改修。ふるさと納税を活用した基金をつくり、資料の修復、購入を行ってきた。

ネオゴシック風の旧清明文庫(左側部分)を活用した勝海舟記念館

 勝は膨大な資料を残している。日常的な文書は、後世に残す意図で書かないので破棄されたり、ふすまの下張りに使われたりするので、現存しないことが多い。だが、勝は自分の備忘を兼ねて意識的に保管していた。現代人に例えると、メールの下書きをすべて保存するタイプだ。
 こうした資料と共に、長州藩士の桂小五郎(後の木戸孝允)が勝の元に持参した嘆願書の草稿も見つかった。八月十八日の政変で京都を追われた長州藩の立場を、長々と四メートル超にわたり釈明している。

木戸孝允が勝海舟に持参した4メートルを超える嘆願書の草稿

 勝は、たくさん書き残したものや資料の中から重要なものを取捨選択し、「海舟日記」などにまとめている。まめな性格にみえるが、星川さんは「時間ができた時にまとめて書く習慣があったようだ。書状の日付が一日ずれていたり、訪問者の名前が一文字違っていたりすることもある」と話す。それでも無血開城のような大きな仕事を成し遂げたので、こういう少し抜けたところも、かえって魅力的に思える。
 明治に入ると新政府に出仕する一方、最後まで徳川家のために働いた。そんな勝がほっとひと息つけたのが、洗足池の景色。「洗足池は無血開城の数日前に通った時とほぼ同じ風景が残ったままだった」と感慨深く振り返る記録も残る。

洗足池のほとりに立つ勝海舟夫妻の墓

 勝が「あの頃の江戸」を懐かしんだ地に立つ記念館は九月で開館三周年を迎える。今年四月に来館者数が累計五万人になり、ファンも着々と増やしている。区文化振興課の近藤正樹課長は「来年は生誕二百年。誕生の地(墨田区)や仕事をした地(港区)と、ゆかりの地として連携していきたい」と話した。
 木戸孝允が持参した嘆願書の草稿など初公開資料を含む八点による企画展「瓦解(がかい)前夜」は二十六日まで。午前十時〜午後六時、月曜休館。一般三百円、小中学生百円。問い合わせは同館=電03(6425)7608=へ。

ミュージアムショップに並ぶ勝海舟のグッズ

 文・山下葉月/写真・由木直子
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