本土初、ドーリットル空襲80年 隠された真実、透ける敗戦の構図

2022年6月16日 07時39分

警察官だった石川光陽が撮影した荒川区尾久町のドーリットル空襲被災地。建物は完全に破壊され、焼け跡から白煙が立ちのぼっている。遠景の煙突群は、当時稼働していた千住火力発電所の可能性がある=石川令子さん提供

 太平洋戦争の開戦からわずか4カ月余り、1942年4月、東京など国内主要都市が米軍機の初空襲を受けた。指揮官の名前から「ドーリットル空襲」と呼ばれ、その後の戦局に大きな影響を与えたにもかかわらず、正確な報道がされなかったこともあって注目を集めなかった。それから80年。体験者の証言や貴重な写真から空襲の実相をたどった。 (小松田健一)
 東京都荒川区に住む堀川喜四雄さん(89)は九歳の時に同区尾久町でドーリットル空襲に遭った。その日は土曜日。国民学校四年生だった堀川さんは午前中で学校が終わり帰宅していた。七人家族で、父は仕事、海軍軍人の長兄と次兄は出征中だった。すぐ上の兄は旧制中学生で登校中。母は弟と出掛けており、堀川さん一人で留守番をしていた。
 午後零時二十分ごろ、「突然、自動車が衝突した時のようなドカンというごう音が響いた。室内は瞬く間に煙で真っ暗になった」と堀川さん。焼夷(しょうい)弾が自宅を直撃し、煙が出ていた。その時は「何が何だか訳が分からなかった」。玄関は炎に包まれて脱出できなくなる。堀川さんは貯金箱と母が愛用していたハンドバッグを手にした。

自ら描いた空襲の絵の前に立つ堀川さん=東京都荒川区で

 「母はその中に現金を保管していたため、持ち出さなければならないと子ども心に感じた」。必死に脱出口を探したら台所の高窓が開くことに気付いた。辛うじて外へ逃げ出した。
 「余計なことを言うな」。後日、学校で教師から空襲のことを口止めされた。一家は現在の「あらかわ遊園」付近に引っ越したが、自宅は四五年三月十日の東京大空襲で全焼した。堀川さんは新潟県に疎開中で家族も全員無事だった。
 戦後、早稲田大を卒業し電機メーカーなどに勤務。「自慢できることではない」と体験を語ることはなかった。しかし「戦争の悲惨さ、不条理さを話すのが生き残った者の責任」と考えるようになり、十年ほど前から市民団体「尾久初空襲を語り継ぐ会」で、語り部活動に取り組む。
 空爆で破壊されたウクライナの街並みの映像を見るたびに「八十年前の記憶が重なる」という。「戦争はいけないと訴え続けることが私の責務」と、言葉に力を込めた。

◆民間人ら死者87人 新聞「揺ぎもなし」

ドーリットル空襲を報じる國民新聞。「敵爆弾の威力恐るるに足らず」「敵、軍事施設爆撃し得ず」などの見出しが並ぶ

 一九四二年四月十八日、千葉県銚子市の犬吠埼東方約千百キロの太平洋上にいた米海軍空母から、ジェームス・ドーリットル中佐率いるB−25爆撃機十六機が発進。東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、新潟、神戸、香取飛行場(千葉県)、西那須野(栃木県)を焼夷(しょうい)弾と通常爆弾で爆撃した。
 攻撃目標は軍事施設や工場群だったが、住宅地にも大きな被害が出た。元防衛大准教授で軍事研究家の関口高史さんは「米国の目的は真珠湾攻撃への復讐(ふくしゅう)と、日本国民の戦意をそぐことだった」と話す。
 「ドーリットル空襲秘録」(柴田武彦・原勝洋両氏の共著、アリアドネ企画)によると、各地で投下された爆弾は計六十発。空襲の直接被害は死者八十七人、住宅の全半壊二百八十六戸だった。他に海上で民間徴用船が空母艦載機から機銃掃射を受けたり迎撃機が不時着したりして、軍人・軍属四十四人が死亡した。民間人と合わせた重軽傷者は約五百人。米軍も中国の日本軍占領地域に不時着した八人が捕虜となり、うち三人が戦犯として処刑された。
 空襲翌日の四月十九日付國民新聞(東京新聞の前身の一つ)は一面の多くを空襲の記事に充てた。「冷静沈着些(いささ)かの揺(ゆら)ぎもなし」「全日本完勝への決意に拍車」と勇ましい見出しが並ぶ。当時、戦況報道はすべて検閲を受けた。当局の発表以外は書くことを許されなかった。
 軍部が受けた衝撃は大きかった。真珠湾攻撃から続いた連戦連勝に水を差され、首都・東京の上空に侵入を許したからだ。昭和天皇が皇居内の防空壕(ごう)に避難したことも重なった。太平洋上で、監視船が空襲の六時間前に空母を発見したが、十分な迎撃ができなかった。関口さんは「実質的に海上監視は海軍、地上防空は陸軍という縦割りになっていた。報道統制も国民の戦意を落とさないように図ったが、空襲はないという根拠のない安心感も与え、結果的に備えが手薄になった」という。
 海軍は米太平洋艦隊を脅威ととらえ、一カ月半後にミッドウェー海戦に挑んだが、空母四隻すべてを失い、日本は敗北への道をたどり始めた。

◆漬物がめでフィルム守る

カメラを手にする石川光陽(撮影時期・場所不明)=石川令子さん提供

 先の大戦の空襲被害を伝える写真は非常に少ない。カメラは庶民にとって高価だった上、「軍機保護法」で軍事に関連する撮影は禁止され、報道機関も検閲を受けていたからだ。その中にあって、警視庁警察官だった石川光陽(一九〇四〜八九年)が撮影した写真は空襲被害を伝える貴重な資料だ。石川は死者十万人とされる一九四五年三月の東京大空襲など、戦禍の東京を克明に記録した。
 石川は二七年に警視庁に入り、カメラの腕を買われ、本部警務課に所属、警察活動を記録するのが主な仕事だった。ドーリットル空襲で東京・荒川区に赴いた。地面に開いた大きな穴や柱だけを残して焼け落ちた住宅など、空襲直後の生々しい様子が伝わってくる。
 次女、令子さん(81)は戦後しばらくして石川から「撮影は警視総監の命だった」と聞いた。石川は連合国軍総司令部(GHQ)からネガフィルムの提出を求められたが、漬物がめに入れて庭に埋めて隠した。退職後は写真講師を務めるなど、後進の育成に尽力した。
 令子さんは「子煩悩で優しい父親だった。カメラが珍しい時代で、友達の写真を撮影して喜ばれていた。空襲の撮影は後世に伝えなければいけないというカメラマン魂だったのだと思う」と話した。

◆太平洋戦争の経緯

【1941年】
12月8日 真珠湾攻撃とマレー半島上陸で開戦
【1942年】
2月15日 シンガポール陥落、英軍降伏
4月18日 ドーリットル空襲
6月5日 ミッドウェー海戦で日本大敗
【1943年】
2月   ガダルカナル島の戦いで敗れ、日本軍撤退
4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官が戦死
10月   学徒出陣始まる
【1944年】
6月16日 北九州市に空襲。ドーリットル空襲以来
6~7月 サイパン島の戦い。日本軍が「玉砕」
7月18日 東条内閣が総辞職
10月20日 フィリピン・レイテ島に米軍上陸
11月24日 東京が空襲受ける
【1945年】
3月10日 東京大空襲
8月6日 広島に原爆投下
  9日 長崎に原爆投下
  15日 玉音放送、終戦

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