【寄稿】沖縄は「復帰」に何を望んだのか 「ネイション」を問い直す 東京大・崎濱紗奈特任助教

2022年6月23日 12時00分

日の丸を掲げて進む「祖国復帰大行進団」(1965年4月27日撮影、沖縄県公文書館所蔵)

◆それは「沖縄問題」なのか

 沖縄出身の芥川賞作家・目取真俊めどるましゅんは、沖縄の現状を指して「戦後ゼロ年」と呼んだ。背景には、日本の敗戦以来現在まで連綿と続く軍事基地の問題がある。いわゆる「沖縄問題」と呼ばれるものだ。

那覇市で1963年2月、信号無視の米兵のトラックが横断歩道の男子中学生をはねて死亡させた事故で、米兵を無罪とした軍法会議の判決への抗議集会(同年5月撮影、沖縄県公文書館所蔵)

 1945~72年の27年間にわたる米軍統治期の沖縄では、軍人・軍属による事件・事故が相次いだ。犯罪そのものも沖縄の人々に多くの苦悩をもたらしたが、それ以上に“法の下の不平等”とも言うべき理不尽が重くのしかかった。犯罪の軽重が、人種や国籍、所属によって自由自在に操られたばかりか、法それ自体が恣意しい的に改変・解釈された。
 こうした経験は実は、占領下の日本本土にも存在していた。例えば57年、群馬県の米軍演習場付近で薬莢やっきょうを拾っていた女性が射殺された「ジラード事件」などがある。かつて米軍基地問題は「沖縄問題」ではなく、言ってみれば「日本問題」であったのだ。しかし50年代以降、日本本土各地から米軍基地が沖縄に移設されると、この問題は沖縄に閉じ込められ、本土から不可視化された。

◆“法の下の不平等”は今も

 “法の下の不平等”に呻吟しんぎんする沖縄の人々にとって、平和主義・国民主権・基本的人権の尊重を三大原則として掲げる日本国憲法は光り輝いていた。米軍の妨害に遭いつつも、住民による直接選挙を経て琉球政府の初の公選主席となった屋良朝苗やらちょうびょうは「72年・核抜き・本土並み」を掲げた。72年の「復帰」は、核兵器の配備を認めず、米軍基地の占有面積を本土並みに削減する、という形で実現されるべきであるとする要求である。

屋良朝苗・琉球政府行政主席(1972年1月7日撮影、沖縄県公文書館所蔵)

 69年の佐藤=ニクソン共同声明により、沖縄の施政権は米国から日本国へと返還されることが既定路線となった。しかし、屋良が掲げた沖縄側の要求は顧みられることはなかった。基地負担が削減されることはなく、核兵器に関しては密約が交わされた。“法の下の不平等”は、日米地位協定の存在により今も継続している。「戦後ゼロ年」と言われる所以ゆえんである(ちなみにこの協定は沖縄だけではなく日本全国に適用されているため、日本国民は誰しも“法の下の不平等”に潜在的にさらされていることになるのだが)。

◆沖縄の苦悩と日の丸

 こうした事態を早くから予見し、「復帰」に強く反対した「反復帰論」と呼ばれる思想運動が沖縄に存在した。国民国家の論理を根底から問い直さない限り、仮に「復帰」を実現しても、戦前と同じように沖縄は軍事要塞ようさいとして日本国の供犠くぎとされるのではないか、という深い疑念である。
 「復帰」から50年がった今、この出来事をどのような文脈に位置づけるのかをめぐる「意味の争奪戦」が続いている。「祖国復帰運動」の集会や行進では、日本国憲法をいただく「祖国」への期待と希望を込めて日の丸が掲げられた。日の丸が喚起するイメージは様々さまざまであるがゆえに、「復帰」という事象には、発端にあった沖縄の苦悩が都合良く忘却され、国家主義(ナショナリズム)に回収される危うさともろさが常に付きまとう。

◆「復帰」は国民に問い続ける

 ところでナショナリズムのもう一つの訳語は、国民主義である。「復帰」は、わたしたちの日本という国において、国民(ネイション)一人一人が主権者として存在し、真に法の下の平等が実現されることを強く望むものであったし、そうした国を作る意志を持った国民であれと、今もわたしたち一人一人に要求し続けている。その要求への応答は、この国の根幹問題を「沖縄問題」として封じ込める発想を解体することから始まる。
崎濱紗奈
東京大東洋文化研究所・東アジア藝文書院(EAA)特任助教
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さきはま・さな 1988年、沖縄生まれ。専門は日本・沖縄近現代思想史、ポストコロニアル理論。近刊に『伊波普猷の政治と哲学 日琉同祖論再読』(仮題、法政大学出版局)。

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