<あしたの島 沖縄復帰50年>全世界に届け 平和の願い 沖縄戦77年「慰霊の日」 川崎市中原区で催し

2022年6月24日 07時23分

琴などの音色に合わせ琉球古典舞踊を披露した「平和の願い」=中原区の市平和館で

 沖縄戦の組織的戦闘が終結して77年を迎えた「慰霊の日」の23日、三線(さんしん)や琉球舞踊などに取り組むグループ「新風(みーかじ)」が「平和の願い」と題した催しを川崎市平和館(中原区)で開いた。昼の部には約130人が来場し、琉球舞踊や沖縄戦についての講話を通じ、平和な世界の実現を願った。 (竹谷直子)
 沖縄県が定めた「慰霊の日」を多くの人に知ってもらおうと開かれ、今年で二回目。琉球古典舞踊の「四つ竹」では、琴や三線の響きに合わせ、赤や黄の紅型衣装と花がさ姿でゆったりとした踊りを披露した。
 学校の平和学習で講師を務める豊岡こずえさんが、沖縄戦で犠牲になった人々について講話。沖縄では、米軍の上陸とともに多くの市民が強制集団死(集団自決)をし「家族単位で命を奪い合った」と説明した。「天皇陛下万歳」の声とともに集められた市民が手りゅう弾で命を絶ち、不発弾だった場合はナタや鎌で殺し合った悲劇を伝えた。
 最後は民謡「平和の願い」を演奏。「上下も揃て心(かみしむんするてぃくくる)打ち合わち誠此の沖縄守て(まくとぅくぬうちなーまむてぃ)いかな(国を治める人も庶民も心を合わせて、真心を持ってこの沖縄を守っていきたい)」との歌詞とともにエイサーを踊り、会場からは拍手が湧き起こった。
 企画者の一人で新風の久保田清美さん(58)=多摩区=は沖縄県浦添市に育ち、祖父を沖縄戦で亡くした。「祖父の遺骨は見つかっていない。どこで死んだかもわからない。それが戦争。一年に一度でもいいので、皆さんで全世界の平和を願っていただければ」と話した。

◆「普通の人が苦しむのが戦争」多くの死を越えて逃げ続けた

 慰霊の日にあたり、沖縄戦を本島中・北部で体験した横浜市内の男性(82)が本紙の取材に応じた。
 逃げて、逃げて、逃げ続けた。多くの死を越えて。男性は言う。「普通の人間が苦しむのが戦争」。ウクライナで戦禍が収まらない今、非戦の思いを強くする。
 避難生活が始まったのは、一九四五年四月一日に米軍が本島に上陸する前だった。同居する祖父が自宅のあった本島中部の読谷村(よみたんそん)から北部へ、家族で逃げる決断をした。男性は当時五歳。近所の子どもたちと防空壕(ごう)へ逃げる大切さを教わる日々が終わった。母や幼い妹、祖母や伯母らと馬車に荷物を積んで、米軍の目につかない山へ向かった。避難は終戦まで続いた。
 家族全員が手こぎ舟で入り江を渡っていた夜のこと。砲弾が近くに着水した。舟は転覆し、伯母が抱えていた赤ん坊が海に消えた。捜す時間はなく、見捨てて進んだ。「自分が生きることに必死だった」。大声で泣いていた伯母の姿だけ覚えている。
 食料は夜に探した。火をおこせば居場所が知れるため、畑で見つけたサツマイモは生で食べた。日中の銃撃と砲撃からも逃げ延びたが、道中では銃剣が刺さった日本兵の死体や布団にくるまれて捨てられた赤ん坊も見た。
 戦後の米軍の支配に嫌気がさし、高校を中退して南米へ移住。五十歳になって出稼ぎで神奈川県を訪れ、横浜市に定住した。沖縄戦は遠い記憶になっていたが、ロシアがウクライナに侵攻を始め、思い出すことが増えた。
 「当時は幼くて死の恐怖を考えるまで至らなかったが、殺し合いが目の前にあった。逃げられない人たちも多くいた」。再び戦禍に見舞われることがないよう、子や孫に体験を語り継いでいる。(米田怜央)

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