<再発見!伊豆学講座>安達盛長、守山八幡宮 頼朝の源氏再興 見守る

2022年6月26日 08時03分

守山八幡宮=伊豆の国市で

 源頼朝を支えた伊豆の武将を取り上げてきたが、最後に宿老十三人のうち頼朝の信頼が最も厚かった安達盛長と、旗揚げに欠かせない守山八幡宮(現伊豆の国市)を紹介する。
 頼朝が伊豆に流され、彼を支えたのが安達盛長である。盛長は藤九郎ともいい、「増訂豆州志稿」に藤原中納言山陰の裔(子孫)とある。源頼朝の伊豆配流中の二十年間を側近中の側近として仕え、妻は頼朝の乳母比企尼の長女である。
 治承四(一一八〇)年五月九日から頼朝が源氏再興を祈願し、百日間毎晩、蛭ケ島(現伊豆の国市)から三嶋大社(現三島市)に日参したとき、従者盛長は大社「相生の松」の場所で警護したといわれる。頼朝の死後、出家して蓮西と称し、正治二(一二〇〇)年、六十六歳で没した。
 盛長は秋田城主、安達氏の祖先にあたる。墓は伊豆市修善寺字小山にある源範頼の墓の近くにあったが、昭和五十八(一九八三)年、修善寺梅林の登り口に移された。おいで十三人の一人である足立遠元(とおもと)は伊豆の足立家の祖といわれる。
 頼朝が男山に遥拝(ようはい)して山木兼隆に向け出陣したが、その男山が守山八幡宮の裏手にある守山である。今まで男山は江間にある大男山と考えていたが、そうではないだろうということが判明した。
 安政四(一八五七)年、守山八幡宮の神主で国学者の槇大和(まきやまと)が守山八幡宮のいわれを記している(江川文庫)。それによると、守山は古く「男山」といい、頼朝が旗揚げした後、源氏を守る山ということで「守山」というようになったとする。槇は国学者であるので、詳細な古典の研究から導き出したこと、またその他の記述について確認が取れることから、ほぼ確実とみることができる。
 守山は、伊豆の国市寺家(じけ)・中條(ちゅうじょう)の西で標高一〇一・八メートル、中腹に八幡祠(し)、山頂は守山城跡がある。建長六(一二五四)年、橘成季が著した説話集「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」に頼朝と北条時政の連歌を載せ、「同大将、もる山(=守山)にて狩せられけるに、いちごのさかり成たるをみて、ともに北條四郎時政が候けるが、連歌をなんしける、もる山のいちごさかしく成にけり 大将とりもあへず、むばら(=茨)がいかにうれしかるらむ」とある。
 守山八幡宮は、「田方郡誌」に八幡神社として、村社、勧請不詳(誰がどの神を)、祭神誉田別命・神宮皇后・事代主命(ことしろぬしのみこと)・木花開耶毘賣命(このはなさくやひめのみこと)・武内宿禰大臣(たけうちのすくねおおおみ)とある。寛政四(一七九二)年、「槃游余録(ばんゆうよろく)」に「延喜七(九〇七)年に筑紫宇佐の宮を遷した」とある。建久六(一一九五)年の「吾妻鏡」に願成就院の妖怪変化に関する記事があり、源頼朝が「寺を守護する鎮守の神を崇拝すれば、怪異はなくなる」といった中で、鎮守する神として祀(まつ)っている。
 式内社「石徳高神社(いわとくたかのじんじゃ)」が二分祀(ぶんし)された神社の一つで、鎮座する寺家鎮守であるとともに北条三カ村(四日町・寺家・中條)の総鎮守でもあった。寛政九(一七九七)年の村明細帳では、年貢負担が免除された除地が二町一反余あり、末社十四を支配していた。天正十五(一五八七)年九月に「豆州田方郡 韮山居住 清水新七郎直英(北条氏の家臣)」の追刻銘のつり灯籠がある。
 江戸時代には領主の信仰も厚く、慶長二(一五九七)年に韮山城主内藤信成が社殿を造立、元和三(一六一七)年には三島代官井出正信が屋根の葺(ふ)き替えを行っている。現在の本殿は寛永九(一六三二)年に武将で神職だった榊原照久が造営したものである。(橋本敬之=伊豆学研究会理事長)

関連キーワード


おすすめ情報