<書評>『雨滴(うてき)は続く』西村賢太 著

2022年7月3日 07時00分

◆愛嬌にじむ圧倒の語り芸
[評]阿部公彦(東京大教授)

 本年二月に五十四歳で急逝した西村賢太。亡くなる数日前に新聞紙上に力のこもった石原慎太郎氏の追悼文を寄稿したばかりで、文芸誌の次回の連載原稿も仕上げていた。実は、数年かけた連載はあと五十枚ほどで完結するはずだった。
 未完に終わったその最後の作品が本作である。原稿用紙千枚を超える、畢生(ひっせい)の大作だ。私小説というジャンルにこだわり、作家自身の私生活や過去を晒(さら)してきただけに、主人公の名を掲げた「さらば、北町貫多」との帯を見ると、現実と虚構がないまぜになり強い寂寥(せきりょう)感に打たれる。
 ただ、「未完の大作」というとまるで雄大な山脈のようにも聞こえるが、描かれるのはヒロイズムからはほど遠い、みみっちく、バカバカしく、下ネタまみれの話ばかりである。女性関係も身勝手な嘘(うそ)や、妄想の独り相撲。ほんとうにひどいものだ。しかし、そんなバカバカしい話を牽引(けんいん)する語りの力が圧倒的なのである。一頁(ページ)に一回どころか、数行ごとに噴き出し、呆(あき)れ、そのうちにどんどん話に釣り込まれる。
 芥川賞受賞後のある時期から西村の作風は微妙に変わる。持ち味のジェットコースター型の展開が抑制されたのである。しかし、本書はそうしたアップダウンもたっぷり取り入れ、これまでの「語り芸」を煮詰めた新境地を感じさせる。お馴染(なじ)みの主人公は作家デビューに至るまでの賢太ならぬ貫多で、大正時代の作家藤澤清造に入れあげる一方、風俗業界で働くおゆうと、新聞記者の葛山久子の間で一人揺れる。担当編集者たちの描写も秀逸だ。
 私小説ではしばしば寒々しい日常や心中の毒を禁欲的に描く。西村の場合、そこに性犯罪を犯した父という過去の「加害」の烙印(らくいん)が加わった。しかし、苦渋を抱えつつ、なお、あくまでおもしろくあろうとするのが西村流だ。そこから不思議な生のエネルギーと、何とも言えない愛嬌(あいきょう)が滲み出した。まさに作家魂。最後までどん底と付き合った作家が、こんなに明るい余韻を残したことを、弔いの気持ちをこめて祝福したい。
(文芸春秋・2200円)
1967年生まれ。作家。『苦役列車』で芥川賞。他に『暗渠の宿』など。今年2月に急逝。

◆もう1冊 

西村賢太著『一私小説書きの日乗』(角川文庫)

関連キーワード


おすすめ情報