<社説>週のはじめに考える インクルーシブな明日

2022年7月3日 06時46分
 いつもと異なる時間帯に出勤した日のことです。電車内はすいていて、先頭に近い席に座ることができました。しばらくすると、一人の若者が目の前に来て「あーあっ」と大声を出しました。ほかに空席はいくらでもあるのに、です。彼は不機嫌さを全身で表しつつ、ついには車両の床に座り込んでしまいました。その後もずっと不満げな様子のまま、数駅先で降りていきました。
 去り際、彼のかばんに、赤い下地に白で「+」と「ハート」マークが描かれたストラップがついていることに気付きました。ヘルプマーク=写真(上)=でした。
 ぱっと見では分かりにくいけれど、障害や疾患、妊娠初期などで援助や配慮を必要としていることを周りに伝えるマークです。東京都で二〇一二年に始まり、今は全国の行政窓口で配布しています。
 もしかしたら彼は発達障害だったのかもしれません。発達障害には自閉症などが含まれ、例えば人との会話やコミュニケーション、習慣や予定の変更が苦手といわれます。国の〇二年調査で、小中学校の通常学級に在籍する子の6%強にその可能性があると分かり、広く知られることになりました。
 彼にとっては、あの席に座ることが毎朝の決まりだったのかも。「席、譲ろうか」と声を掛ければよかったなと、後で思いました。

◆心に寄り添いたい

 元中学教諭の山田哲郎さん(68)は昨年来、教員仲間と発達障害児のための放課後等デイサービス施設を三カ所、名古屋市内に立ち上げました。一緒にゲームや遊び、勉強をする=写真(下)=なかで「一人一人のいいところを見つけ、伸ばしてあげたい」と言います。
 新米教諭のころ、友達付き合いが不得手な子がいました。修学旅行を控えて、どの班にも加われません。山田さんは同じ班に入れてあげてくれないかと皆に頼み込みました。しかし、当の彼の方がその場で「もう修学旅行なんか行かない」とキレてしまいました。
 山田さんは無事に引率することに必死で、自分の思いを表現するのが難しい彼の心に寄り添うことができませんでした。結果として「彼を押しつける形になってしまった」。今でもあの日のことが思い出され、胸が痛むそうです。
 作家、東田直樹さんは〇七年、中学生のときにエッセー「自閉症の僕が跳びはねる理由」を出版しました。会話は困難ですが、文字でなら自分の言葉を紡げます。
 なぜ、独り言や単独行動が多く、同じ事や物に固執してしまうのか。実は、自分ではこうすべきだと分かっていても「脳の命令」で抑えきれないそうです。命令に従わないと「地獄に突き落とされそうな恐怖と戦わなければならない。生きること自体が、僕たちには戦いなのです」。海外でも翻訳され、彼らの心の内が初めて理解できた、などと大反響を呼びました。

◆「僕、この本好き」

 インクルーシブ(包み込む)という概念が広がっています。
 インクルーシブ教育は障害のある子もない子も共に学ぶこと。国の有識者会議が本年度、今後の方向性を提言します。大分県別府市は障害者もお年寄りも「誰ひとり取り残さない」インクルーシブ防災に先駆的に取り組んでいます。体が不自由な子も遊べるインクルーシブ公園、音の鳴るボールなどを使ったインクルーシブスポーツも普及しつつあります。
 彼らのことをいろいろ調べるうち、教育者、多賀一郎さんの著書で、絵本「あしたのねこ」(きむらゆういち作)に出合いました。
 しっぽが曲がり、変な声で鳴く子猫は一匹だけ、もらい手がありません。母親から言われた「気持ちだけは、いつもあしたを見てるんだよ」の言葉を胸に、つらい日々を懸命に過ごします。最後は命の危険にもさらされますが、自分の存在に気付いてくれた人がいることを知り、それだけで生きる力がわいてきて、子猫はあしたに向かって「ニャア」と鳴くのです。
 この絵本を、多賀さんの知り合いの教諭が、小学二年生に読み聞かせをしたところ、いつもは落ち着いて授業を受けられない男の子がずっと黙って聞いていて「僕、この本好き」と言ったそうです。
 この子も、言葉には出せなくとも、おそらく何度も傷つき、そして周りの優しさに救われてきたのでしょう。彼らのことをもっと理解したい−。その先に、誰もが互いに認め合えるインクルーシブなあしたが来るのではと思います。

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