政治家・北条政子とはー 山本みなみさんが迫る実像 「4代は政子」 判断力 指導力 心配りで主導

2022年7月4日 07時19分
 鎌倉時代の女性といえば、真っ先に名前が挙がるのは北条政子(1157〜1225年)だろう。知名度は高いが、将軍の妻・母という枠組みで語られがちで、政治家としての功績がきちんと評価されていない−。こうした視点から、鎌倉歴史文化交流館学芸員の山本みなみさん(32)は『史伝 北条政子』(NHK出版新書、968円)を著した。本書が描き出す政治家・北条政子とは。 (北爪三記)
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻であり、二代将軍頼家と三代将軍実朝の母である政子。弟の執権・北条義時の追討を後鳥羽上皇が命じた承久の乱で、御家人たちに頼朝の恩を説き、結束を促したエピソードでも知られる。
 「ほんとに身を削って書きました」。山本さんが苦笑する。本書は、歴史学の研究成果と史料の検討を踏まえ、政子の生涯をたどる論考だ。「いろいろな史料を集め、できるだけ立体的に政治過程を復元して、その中に政治家として政子を位置付けたい、と考えました」と意図を説く。
 頼朝の死後に出家していた政子は、実朝が暗殺されると、京都から将軍を招くため朝廷と交渉。九条家から二歳の三寅(みとら)(元服後は頼経)を迎え、幼少期は自らが幕政を主導する。山本さんが、政子の重要な功績の一つとして描いたのは、この「尼将軍」時代の最後、義時が亡くなった直後の混乱を巡る対応だ。
 政子は義時の長男・泰時を執権に据えたが、これに反発する不穏な動きがあった。情勢の鍵を握る三浦義村に、政子は承久の乱で泰時が果たした役割の大きさを説いて忠誠を誓わせ、他の御家人たちには頼朝の名前を出して、事を未然に防ぐよう訴えた。事態を収束させ、翌年、他界する。
 この一件から浮かぶのは、政子の的確な状況判断と強力な指導力だろう。「頼朝亡き後の権威は、残された妻の政子が継いでいる。御家人たちにとって精神的支柱になっていたんですね。だから、演説によって皆がまとまったのだと思います」。夫に先立たれた妻が家長権を代行し、子どもたちを監督する権限を持ったという中世の慣習を踏まえ、山本さんが説く。
 ただ、政子の求心力の理由はそれだけではないとみる。「頼朝の時代から御家人たちに心を配っていたから、みんなついていったんじゃないかと思うんです。そして、あくまで頼朝が残した鎌倉を守っていきましょう、というところがぶれない」
 政子は、『吾妻鏡』などの史料で歴代将軍に名を連ね、鎌倉時代の人々は四代は政子、五代が頼経と認識していたという。本書に盛り込まれた史料には、京都側からも政子が一目置かれた存在であったことを示す書状の断簡や、政子から泰時への遺言ともいえるやりとりを伝える貴族の日記の断簡など、最近新たに見つかったものも含まれる。
 さらに興味深いのは、終章「後代の政子像」だ。各時代の史料に見える政子評を丹念に追って解説しており、「気性が激しく、嫉妬深い」とか、「良妻賢母」といった政子のイメージが、どういう時代状況の中で生まれたのかを理解できる。
 山本さんは今回、改めて政子を調べる中で印象に残ったのが、出産時期だという。本書には、頼朝との間にもうけた二男二女の生年と出産年齢を示している。注目したのは、長男頼家の誕生から次男実朝が生まれるまで、十年の開きがあることだ。
 「当時は疫病などもあって、成人できるかどうかも不確実。跡継ぎを期待される中で男の子を生み、母親として苦労したのに、子どもたちは四人とも病気と、政争に巻き込まれて死んでしまう。これは大変だったんだろうなあと思うんです。皮肉にも実朝が暗殺されたことによって、尼将軍として歴史に名前を残すことになるんですよね」
<やまもと・みなみ> 1989年、岡山県生まれ。中世史研究者。鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大非常勤講師。京都大大学院で博士(人間・環境学)の学位を取得。中世の政治史・女性史、特に鎌倉幕府や北条氏が専門。昨年12月に初の単著『史伝 北条義時』(小学館)を刊行。

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