<考える広場>森鷗外という生き方

2022年7月5日 07時50分
 森鷗外が一九二二年七月に没して百年がたつ。文学者として名声を集めただけでなく、陸軍省の医務官僚としてもトップの地位に上り詰めた巨人は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の言葉を残して旅立った。彼の生き方から何を学び取ればいいのだろう。

<森鷗外> 本名・森林太郎。1862年2月、石見国津和野(現島根県津和野町)生まれ。東京大医学部卒業後、陸軍省へ入省。派遣留学生としてドイツで4年間、軍医生活を送る。帰国後、訳詩集「於母影」(共訳)、小説「舞姫」、アンデルセンの自伝的小説の翻訳「即興詩人」などを発表。「阿部一族」「高瀬舟」などの歴史小説、「渋江抽斎」などの史伝も執筆。晩年は帝室博物館総長、帝国美術院長を務めた。

◆常に間に立ち続けた 聖心女子大教授・大塚美保さん

 鷗外はあれかこれかの二者択一ではなく、常に二つのものの間に立って頑張り続ける生き方をしてきた人だったと思われます。
 私たちの目には異質な専門分野に思える医学と文学、また、官僚としての職業生活と文学者としての生活、その両方を生涯、捨てることなく全うしました。軍の医務官僚としては陸軍軍医総監・陸軍省医務局長にまで上り詰め、晩年は宮内省の帝室博物館総長兼図書頭に任じられ、高位の官僚として生涯を閉じます。仕事に打ち込むことと良き家庭人であることを両立させたことも注目に値します。
 文学の世界では、翻訳や創作を通じて日本と西欧という異質な二つの文化の間を媒介しました。ドイツから常に新刊書や新聞、雑誌を取り寄せ、ヨーロッパ文化の最先端を紹介し続けました。鷗外が田口卯吉を評した「二本足の学者」という言葉は、日本と西欧の両方に軸足を置くという意味ですが、鷗外自身もまさに「二本足」の文学者でした。
 一九一〇年に起きた大逆事件の裁判の際、鷗外は、社会主義や無政府主義とはいかなるものかについて被告の弁護人に講義して弁護活動を支援する一方、被告を処罰する政権側の山県有朋とその周辺の人々にも講義しました。つまり、明治政府というシステムの内側にいながら、体制の外側の声や思想を内側に媒介する役割を果たしていました。この年、鷗外が発表した小説「沈黙の塔」や「食堂」からは、「毒が入っていそうだ」というだけの理由で新しい思想や学問、芸術を取り締まるべきではないという、大逆事件後の政府の言論統制を厳しく批判する鷗外の思想をうかがい知ることができます。
 また、友人の賀古鶴所(かこつるど)との手紙のやりとりからは、ロシア革命が起こり、国内の労働運動が高まる中、鷗外が、天皇制の下で公平な富の分配をめざす一種の国家社会主義革命の構想を持っていたことが分かります。実行には至りませんでしたが、この構想は天皇制を維持していくという点では、保守的であり、国の仕組みを土台から変えていく点では革新的なものでした。現実解を求めて、対立する二つのものの間に踏みとどまって考え抜く。二項対立の一方を選ぶことでは世界や社会の問題を解決できなくなった今の時代こそ、鷗外の生き方に学ぶべきではないでしょうか。 (聞き手・中山敬三)

<おおつか・みほ> 1965年、東京都生まれ。森鷗外記念会常任理事。専門は、日本近代文学。著書に『鷗外を読み拓(ひら)く』『森鷗外論集 彼より始まる』(共著)『帝国の和歌』(同)ほか。

◆生き急いだ人生 反省 作家、編集者・森まゆみさん

 小学校に行く途中に、文京区立鷗外記念本郷図書館(現・文京区立森鷗外記念館)があり、よく利用していました。そこは、鷗外が人生の後半三十年を過ごした自宅があった場所で、ドイツ留学時代のビールジョッキや刺繡(ししゅう)枠など鷗外の遺品が並ぶ部屋もありました。
 地域誌「谷中・根津・千駄木」を創刊した当時は死後六十年ぐらいで、まだ生前の鷗外を知る人も結構いました。文学者でも陸軍軍医でもない、地域の人から見た鷗外、地域で生きた人としての鷗外を書きたくて、自宅周辺や関係先をたどりました。鷗外はほぼ毎日、自宅周辺を散歩していたみたいですが、意外と気さくな人だったみたいです。しがみつくように馬に乗って出勤していたという話を聞いて、ぐっと身近に感じました。
 鷗外は日本にとって「西洋の窓」でもありました。医学や文学などの雑誌を海外から数多く取り寄せ、翻訳していました。そんな彼の自宅・観潮楼(かんちょうろう)には多くの若い文人たちが集い、「千駄木のメエトル(巨匠)」と呼ばれて慕われていました。明治という時代に、日本を近代化するために、西洋の文化や学術をたくさん日本に紹介しようと努力した人です。
 初期の「舞姫」のせいで、「官僚的」「冷たい」「女を捨てた」というイメージを持たれがちですが、これはフィクション。与謝野晶子や樋口一葉らをきちんと評価して雑誌に取り上げたり、弟の妻に執筆を勧めたり、当時としては女性の能力をフェアに認めていた人だったと思います。「最後の一句」「安井夫人」「ぢいさんばあさん」には、意志の強い毅然(きぜん)とした女性が描かれていて、私は好きです。
 後半生の小説や短歌を見ると、「生き急いではダメだ」というメッセージを強く感じます。開業医だった父と自分自身をモデルにした小説「カズイスチカ」や、「我百首」にある「何一つよくは見ざりき生(せい)を踏むわが足あまり健(すくやか)なれば」の短歌とかがそれです。自分は明治の富国強兵、殖産興業、立身出世のかけ声のもと、よく勉強し、よく仕事をしてきたが、その先に何があったのか−。あまりに生き急いだという反省の念があったのではないでしょうか。日々を丁寧に生き、人と愛情深く接し、生きていくことが人生の目的そのものだと、遅くなって気付いたのではないですか。 (聞き手・飯田樹与)

<もり・まゆみ> 1954年、東京都文京区動坂生まれ。84年、季刊の地域誌「谷中・根津・千駄木」(愛称・谷根千)を創刊。著書に『鷗外の坂』『「五足の靴」をゆく−明治の修学旅行』など。

◆鬱屈を原動力に創作 医師、作家・海堂尊さん

 何事にも執着しない人。これが、私の中にある森鷗外の人物像です。評伝を書くために彼の作品や伝記を読むうち、そう感じるようになりました。興味を持ったことには集中して取り組むけれど、それが終わればすぐ次へ。そんな印象です。
 鷗外は、多面的で奥が深い人です。医学と文学という二本柱に加え、もう一本の補助柱があったと私は考えています。それは時によって変わります。評論家、博物学者、組織構築者。鷗外にとって、補助柱が逃げ道、遊び場になっていました。
 医師としての鷗外は、軍医総監まで上り詰めますが、失策もしています。ただ、当時の社会的・時代的状況を考えると、やむを得なかった面もあります。失策を殊更に非難し、彼を否定するのは、礼に欠ける態度だと思います。
 鷗外は巨大な迷宮のような人ですから、入り込んでしまうと、見えなくなるものもあります。そこで私は、北里柴三郎と対比して、一つの物語を書きました。北里との対比によって、医師としての鷗外は理解しやすくなりました。
 文学界で比べるなら夏目漱石ですが、漱石もすごい人なので二人を対比しても分かりやすくならず、かえって混沌(こんとん)となってしまう気がします。でも、鷗外が漱石を高く評価していたことは事実です。漱石の作品を読むと腕がむずむずする。鷗外はそう言い、漱石を自分にとって好敵手だと考えていました。
 鷗外の創作活動の原動力になっていたのは鬱屈(うっくつ)です。ドイツ留学から帰ったとき、華々しく迎えられると彼は思っていました。実際には、上司との確執や結婚の失敗などで鬱屈がたまった。そのとき、一気に書き上げた小説が「舞姫」です。
 漱石は今も読まれていますが、鷗外は現代社会にマッチしないところがあります。文体が今の読者には受け入れにくいのです。鷗外を面白く読むためには時代背景や彼の人生についてある程度の知識が必要です。それで、四月に出版した評伝には詳しい年譜を付けました。
 鷗外の小説には私小説の顔があります。彼は、この小説を書いたとき何をしていたのか。それを知って読むと、とても面白くなります。不連続に見える短編集も、鷗外の鬱屈の地層です。そこが分かれば、鷗外作品に新たな興味が湧いてくるはずです。 (聞き手・越智俊至)

<かいどう・たける> 1961年、千葉県生まれ。外科医、病理医。2006年に『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)で作家デビュー。近著に新書『森鷗外 よみがえる天才8』(筑摩書房)。

<お断り> 「考える広場」来週は休みます。次回掲載は19日です。

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