<社説>原爆忌に考える 記憶と記録が抑止力

2022年8月6日 07時04分
 一般社団法人「昭和文化アーカイブス」代表理事の御手洗志帆さん(34)=写真=は、この夏も「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」を開催します。
 最初はたった一人で始め、今年で十一回目となる映画祭。千葉県流山市の「スターツおおたかの森ホール」で十日から三日間。「あゝひめゆりの塔」(舛田利雄監督)「ゴジラ」(本多猪四郎監督)「戦争と人間・一部〜三部」(山本薩夫監督)など、原爆と戦争をテーマにした七本を、趣旨に賛同する俳優の吉永小百合さんのトークショーや、被爆者の証言などを織り交ぜて上映します。
 去年、結婚をきっかけに東京から札幌市に移り住み、この三月に長男が生まれたばかり。「それはもちろんしんどいですよ。コロナ禍ですし、でもやめるつもりはまったくありませんでした」と御手洗さんは言い切ります。
 「なぜだろう…」。自分自身の記憶の底を探ります。
 広島市西区の生まれですが、戦後に移り住んだ祖父の代からの広島市民で、被爆二世、三世ではありません。でも、原爆の「記憶」はいつも身近にありました。
 小学校二年生の時に「平和教育」の一環として体育館で被爆者の証言を聞きました。語り手は八十歳ぐらいの男性で、証言をするのは、その時が初めてだったようでした。
 …あの日弟と二人、爆風になぎ倒された家屋の下敷きになってしまった。自分は自力ではい出せた。弟を必死に救い出そうとしたが、猛スピードで火が迫る。見捨てて逃げざるを得なかった…。
 そこで嗚咽(おえつ)がひどくなり、証言を続けられなくなりました。
 「大人の男性が人目もはばからず、泣きじゃくる姿を見たのは初めてで、子どもごころに衝撃でした。多分あれが、活動の原点だったと思います」と御手洗さんは振り返ります。
 その後東京の短大に進むと、「八月六日」を知らない同世代の多さに驚きました。
 モヤモヤした気分の中で就職活動をする気になれず、アルバイトで生計を立てながら、手当たり次第に本を読み、音楽を聴き、名画座に通う日々。そんな時、新藤兼人監督の「原爆の子」に出会い、再び衝撃を受けたのです。

◆私も何も知らなかった

 被爆した子どもたちの手記を基にして、原爆がもたらす悲劇を淡々とつづった一九五二年公開のモノクロ映画です。
 「私だって本当に何も知らなかったんだ。この映画をみんなに見てもらいたい」
 そう思い詰め、行動を開始します。アルバイトの蓄えと親から借りた資金を携え、新藤監督の作品を管理する「近代映画協会」に飛び込みで協力を取り付けて、二〇一二年八月六日から三日間、東京・日比谷図書文化館で「第一回新藤兼人映画祭」の開催にこぎ着けました。「原爆の子」「一枚のハガキ」など五本。上映したのはすべて新藤作品でした。
 翌年には「新藤兼人平和映画祭」、おととしからは今の名称に変えて、上映する映画のジャンルを広げ、計十一回目を迎えます。
 今回はウクライナ支援のためのコンサートも併せて企画しましたが、コロナの感染急拡大で中止を余儀なくされました。
 「ウクライナのことでロシアが核の使用をほのめかすとか、原発を攻撃するとか、日本も核を持つべきだという声が上がるとか、世界は危険な方へ流れています。でも例えば原爆の本当の恐ろしさを知れば、そんな話にはならないと思うんです、知らないって怖いんですよ」と御手洗さん。
 「原爆の子」の一場面が頭をよぎります。乙羽信子さん演じるヒロインと、かつて職場の同僚だった友人との会話のシーン。
 <原爆の悲劇は時間が経(た)てば経つほど広がるのね>
 <本当に恐ろしいねえ。もう一度どっかでこれが使われるようなことがあったら…。思うただけでもぞっとするわ>
 まるで、今目の前で交わされているようではないですか。

◆「語り継ぎ部」の世代

 「記憶と記録こそ最大の抑止力。映画の力を借りれば、戦争を知らない私たちにも『被爆の実相』を伝えていけると信じています」と、御手洗さんは前を向きます。
 「語り部」ならぬ「語り継ぎ部」の世代の決意に耳を傾けたいものです。「戦争を知らない子どもたち」が、戦争や原爆の悲劇を肌身に知る日が来ぬように。今日、七十七年目の原爆忌。

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