<書評>『私と街たち(ほぼ自伝)』吉本ばなな 著

2022年8月7日 07時00分

◆人生の断片 ドライに再訪
[評]中江有里(女優、作家)

 まえがきに「自伝っぽいある種のフィクションだと思ってくださるとありがたい」とある。いわゆる自伝のイメージとは違うエッセイ集。
 著者の人生の断片を集めた本書は、色とりどりの紙でつないだ切り絵を思わせる。俯瞰(ふかん)すると、吉本ばななという作家が浮かびあがってくる。
 五歳のころから「プロの小説家」だったという著者は、息をするように小説を書いてきた。何も美化せず、自虐することもなく、目の前でぽつぽつと語るみたいに街と自分について綴(つづ)る。
 甲州街道沿いにある先祖代々のお寺に、かつて著者は父と二人で何度も訪ねた。やがて父が逝き、著者は初めて一人で甲州街道を通り、父の眠る墓を参った。 
 それ以外に友人を見舞った部屋の窓から、愛犬を病院へと運んだ車内から見えた甲州街道は「死を受け入れていく道」となった。死の記憶が刻まれた道を通る度に、著者の心は疼(うず)く。
 一時期暮らした下北沢はコロナで店が撤退する以前から変わり始めていた。個人商店が消えていく街を嘆きつつもウエットな感じはない。すべてのものはいつか変わる。そこにさっぱりとした無常観を覚えた。著者は言う。
「こだわりだけが自由を殺し続ける」
 現実の約束や契約に縛られている人を解放する言葉だ。こだわりにがんじがらめにならず、現在に合わせてとっぱらえば、人生は一から始められる。それが著者の生き方。
 自伝はこれまで辿(たど)った道のりを記すものだろうが、本書はドラマティックな場面より、著者の人生を変えた日常の裂け目が緩やかに連なっている。
 「全体がほどよく不潔で、とにかくひたすら普通の」店や手作りというムード漂うのに、業務用ロールキャベツを出すお店もたしかにそこにしかない場所で、名店というわけじゃないけど、なぜか忘れがたい。きっと一度でも暮らした街、訪ねた場所はその時の経験とともに自分の中に織り込まれていく。実際に再訪しなくても、本書を通じて何度も戻っていける。
(河出書房新社・1650円)
1964年生まれ。作家。『キッチン』『TUGUMI』『不倫と南米』など多数。

◆もう1冊

吉本ばなな著『ミトンとふびん』(新潮社)

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