鉄道開業150年 鉄道の戦禍 今に伝える

2022年8月7日 07時00分

さいたま市の鉄道博物館にある機銃掃射を受けたEF55形電気機関車=同館提供

 鉄道150年の歴史の半ばには太平洋戦争があった。人と物資を運び続けた鉄道は攻撃目標となり、多大な戦禍を被った。空襲が多かった首都圏の鉄道施設や列車には、米軍機による機銃掃射の痕跡がいまも残っていたり、犠牲者を慰霊する碑が建てられている。そのいくつかを訪ね歩いた。
 列車への空襲で最も多くの被害者が出た現場は八王子市内にある。「湯(い)の花トンネル列車銃撃事件」といい、JR中央線の湯の花トンネル近くには供養塔と慰霊碑が立っている。

「湯の花トンネル列車銃撃事件」の供養塔(手前)と慰霊碑=八王子市で

現在のJR中央線下りの湯の花トンネル。この近くに供養塔などがある

 一九四五年八月五日昼、トンネルに差しかかった新宿発長野行き列車に米軍機が機銃掃射を浴びせた。五十二人が死亡、百三十三人が負傷。死者はその後に亡くなった人を含めると六十人以上という。
 当時、空襲警報が発令中だったとされ、手前の浅川駅(現在の高尾駅)で運行中止もあったと思うが、遅れていたうえ、乗客で満員状態だったこともあり、出発に踏み切ったようだ。
 この約一カ月前の同年七月八日、浅川駅も米軍機の機銃掃射を受けている。現在の高尾駅一、二番線ホーム支柱に、その跡が今も残る。

JR高尾駅ホームの支柱に残る銃撃痕=八王子市で

 鉄道博物館(さいたま市大宮区)の「EF55形電気機関車」にも機銃掃射の跡がある。「カバ」などと呼ばれた流線形車両だ。四五年八月三日、沼津機関区で米軍機の機銃掃射を受け、十六カ所を破損。十五カ所は修理されたが、運転室天井の弾痕はそのままに。運転室には入れないが、窓の外から穴が見える。

EF55形の運転席天井。中央の穴が銃撃痕=同館提供

 EF55形の近くに展示されている「9850形蒸気機関車」は炭水車の連結部にへこみがある。この車両は戦時中は既にリタイアしており、東京・神田の鉄道博物館(後の交通博物館)に展示されていた同年三月十日、焼夷(しょうい)弾が直撃した。

鉄道博物館に展示されている9850形蒸気機関車。連結部に焼夷弾直撃のへこみがある

 EF55形は銃撃を受けた時、待機場所にあって人が乗っていなかった。9850形に落ちた焼夷弾は不発で火災が起きなかった。人への被害がなかった点では奇跡の二両といえよう。
 四五年八月十三日の空襲の際に四十二人が亡くなったJR成東駅(千葉県山武市)にも慰霊碑があり、JR二宮駅(神奈川県二宮町)南口には平和祈念の「ガラスのうさぎ像」が立っている。

◆「鉄道は兵器」戦い続ける 終戦の日も列車は走った

 「鉄道は兵器として重大な使命をもつ」。一九四四年に運輸通信省鉄道総局が発行した冊子「決戦輸送図絵」に記されている。当時の鉄道のあり方を示しており「戦力増強のための資材輸送に、国民生活の必需品の確保に、輸送力のすべてをあげて戦い続けている」ともつづっている。
 戦争末期、船舶は乏しく、燃料を自給できない自動車は頼れず、輸送における鉄道の比重は大きかった。人々の移動は制限され、四四年四月からは、百キロ以上の鉄道乗車には旅行証明書が必要になった。
 鉄道博物館の奥原哲志学芸員は「一般国民は自由な移動を制限され、実質的に鉄道利用から締め出された。『兵器』という強烈な言葉を用いたように、鉄道総局はどんな状況になっても列車をなんとしても走らせようとした」と説明する。

終戦の日の列車の運行について説明する鉄道博物館の奥原哲志学芸員

 最近、終戦の日の列車の様子がわかる資料が見つかった。列車運行図表に、当日の実際の列車運行状況を手書きで記入した「整理ダイヤ」だ。東北本線一ノ関−尻内(現在の八戸)間。上野発の長距離列車は、八月十五日午前一時三十分に盛岡に到着する予定だったが、赤字で「247」と記入がある。四時間七分遅れたという印だ。ほかの列車も大幅に遅延していたが、それでも動いていたことがわかる。
 決戦輸送図絵、整理ダイヤとも鉄道博物館で開催中の企画展「鉄道の作った日本の旅150年」のなかで紹介されている。

戦時中の列車内。2人用座席の肘掛けが外され、3人座るよう励行された=鉄道博物館提供

 文と写真・桜井章夫
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。

関連キーワード


おすすめ情報

TOKYO発の新着

記事一覧