秀吉の養子・豊臣秀次 死の謎に一石 切腹3カ月前「不仲」否定する新史料

2019年8月30日 16時00分

豊臣秀吉の側近が毛利輝元に送った秀次の息子に関する書状=東大史料編纂所提供

 豊臣秀吉から関白職を継承しながら、秀吉の不興を買い失脚、切腹したとされる養子の秀次について、死の約三カ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が見つかった。
 秀吉は側室淀君との間に実子秀頼が誕生したことで、関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容で、書状を精査した東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授は「秀次の切腹に至る経緯の解明につながる貴重な発見だ」と話している。
 史料は同編纂所が保管していた文書群から見つかった。秀吉の側近が有力大名の毛利輝元に宛て、政治情勢などを伝えた一五九五(文禄四)年の書状とみられ、「殿下様(秀次)の若君を大和の国主にする」と秀吉が述べていたとする記載があった。秀次は、書状が書かれた約三カ月後に謹慎を命じられて切腹し、妻や子どもも処刑された。
 通説では、九三年に生まれた秀頼を跡継ぎにしたい秀吉の思惑が、秀次の切腹につながったとされてきた。ただ村井准教授によると、切腹の理由を直接的に裏付ける一次史料は見つかっておらず、近年は通説を疑問視する研究もあるという。
 村井准教授は「大和は京都と大坂に接する重要な土地。秀吉は豊臣政権の安定を考え、少なくとも書状が書かれた時点では、秀次一家をつぶすつもりはなかったのではないか。切腹までの約三カ月に決定的な出来事があった可能性がある」と話している。

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