松本サリン発生から25年 「地下鉄事件防げず悔しい」 元捜査員苦しい胸の内

2019年6月29日 16時00分

閑静な住宅街に猛毒サリンがまかれ、8人が死亡した松本サリン事件の現場=1994年6月28日、長野県松本市で

 長野県松本市で猛毒サリンがまかれ八人が死亡した事件から二十五年。薬品調達ルートの捜査からオウム真理教にたどり着いていた長野県警の捜査員は当時を振り返り、「東京の地下鉄サリン事件を防げず悔しい」と心境を明かした。 (安永陽祐)
 蒸し暑い夜だった。一九九四年六月二十七日夜、長野市の官舎で電話が鳴った。「五人くらいが亡くなったようだ。食中毒かも」。県警捜査一課の特殊事件捜査係長だった上原敬さん(64)は、本部から一報を受けた。現場に着くと、住民が路上で口元をハンカチで覆い、犬が死んでいた。
 発生六日後、県警は原因物質を「サリンと推定される」と発表。化学知識のある五人が集められ、サリンの合成方法などを解明するチームが結成された。大学の農学部出身で農薬について学んでいた上原さんがリーダーになった。
 化学の専門書を読み込む日々。「Sarin」の文字にマーカーを引き、付箋を何枚も貼った。七月には合成過程を突き止め、生成に必要な薬品の調達ルートの捜査も進めた。
 やがて、薬品会社の販売先から不審な男が浮上。男には過去の取引歴がなかった。捜査員が男の所在地に向かうと、建物の窓から外の様子をうかがう人影が見えた。オウム真理教の世田谷道場だった。
 オウムのダミー会社が薬品を購入し、サリン生成に必要な物質を百八十トン調達したことも分かった。「オウムが捜査線上にあると外部に分かっちゃいけない。道場の最寄り駅にちなんでオウムを『山下』と呼んだ」と明かす。
 当時、第一通報者の河野義行さんを犯人視した報道が相次ぎ、「農薬からサリンはできる」との報道も出た。「迷いが生じることもあったが、構造式を見れば農薬からできるわけがない。ごくわずかな量で死に至るサリンは一般の住宅で作れない」。上原さんはサリンの構造式をすらすらと書きながら振り返る。
 警視庁は、翌九五年三月下旬に山梨県の教団施設を強制捜査する方針を固めた。長野県警の捜査員も山梨県内のダミー会社の倉庫近くで張り込み、強制捜査に備えたが、直後に地下鉄サリン事件が発生した。
 事件発生から二十五年がたつが、当時を語ることには迷いもある。オウムまで肉薄しながら、目前で地下鉄サリン事件が発生し、「結果として防げなかった」との悔いは消えない。一方で「現場では幅広い捜査をしていた事実も知ってもらいたい」と葛藤もある。
 事件では化学の知識が捜査に役立った。県警の後輩には「いろんなことを知っている警察官がいていい。多様性が大切」と教訓を伝えている。
<松本サリン事件> 1994年6月27日深夜、長野県松本市北深志の住宅街でオウム真理教信者7人が毒ガス「サリン」を散布。教団が抱えていた民事訴訟を担当していた長野地裁松本支部の裁判官が住む官舎が標的になった。周辺住民ら8人が死亡し、約600人が体調不良を訴えた。事件翌日、県警は容疑者不詳のまま第一通報者の河野義行さん宅を捜索。マスコミは当初、河野さんを犯人視する報道を続けた。昨年7月、一連の事件で元教団代表の麻原彰晃元死刑囚=本名・松本智津夫=や教団幹部ら13人の死刑が執行された。

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