<東京五輪 静岡の軌跡 1964から2020へ>(1) 1964年東京大会聖火ランナー・西島詮さん(74)=裾野市

2020年1月9日 02時00分

トーチを持つポーズをとり、聖火ランナーとして走った思い出について語る西島詮さん=裾野市で

 「走った思い出は一生の宝。折に触れ思い出し、自信にもなった。たかが聖火ランナーかもしれないけれど、オリンピックに携わった一人だと思っています」
 裾野市の西島詮(さとる)さん(74)は、東京五輪開幕四日前の一九六四年十月六日、裾野町(当時)選出の正走者として三島市内を走った。当時十九歳。距離は笹原バス停前-見晴学園前の一・二キロ。上りのだらだら坂が箱根へと抜ける山道だ。
 よく晴れた午後三時前、太陽が真上にあった。パトカー、白バイに先導され、副走者二人と随走の中学生二十人を従え走った。「ヘリコプターが追ってくるのは音で分かった。トーチは時々火の粉が飛ぶぐらいで『熱い』というより『温かい』と感じた。後ろの人は煙くて仕方なかったらしい。自分は良かったけど」
 中学でバスケットボール、裾野高では器械体操に熱中。俊足自慢で、町の運動会に駆り出され、リレーのアンカーも務めた。当時は社会人になったばかり。沼津市の石油会社で営業を担当していたが、経歴を買われ、年齢条件にも合致したことから、町でただ一人の正走者に選ばれた。
 事前練習は三回ぐらいしたが、トーチを使うのはぶっつけ本番。前走者からの受け渡し時「早く(火が)着かないかな」とじれた。他区間で走者が転んだり、火が消えたという話は聞かなかったので大丈夫だろうとは思っていたが、ゴールで一呼吸誤り、次走者と向き合うのが遅れた。「『やばっ!』と思いましたね」
 当時の珍しいカラー写真が多数残っている。町の写真店が撮影してくれたためだ。向き合いが遅れた瞬間まであり、「恥ずかしいなあ」と照れる。昨年六月、当時の写真数点とリレーで着用したユニホーム、走者委嘱状と記念のメダルを裾野市に寄贈した。現在、市生涯学習センター(裾野市深良)で展示中だ。

中継地点でトーチを掲げる西島さん(中央)。ここで後ろの伴走者らのように次走者と向かい合わねばならないが、一呼吸遅れたという=三島市内で(西島さん提供)

 これまでの人生で、走者の経験が目立って糧になったかは分からない。だが、両親や近所の人が参加を喜んでくれたことで「一つの事業を成し遂げた。自慢できることが一つでもあるのはやはり違う」との思いを抱き続けた。今大会も走者に推薦する声が出たが「いい思い出は独り占めできない。今回は若い人に」と応募しなかった。
 ロードバイクを楽しみ一日七十キロ走る日も。今回、裾野市はロードレース会場に選ばれ、観戦を心待ちにしている。「富士山をバックに走れば、裾野が知られるきっかけにもなる」。世界中の人々が五輪を契機に市内を訪れることを願っている。 (前田朋子)
     ◇
 一九六四年の東京五輪では、県内も大変な盛り上がりを見せた。西から東に駆け抜けた聖火ランナーや、出場選手、関係者らに当時の熱気と、今大会への思いを聞いた。
<県内の五輪聖火リレー> 2020年は6月24日に湖西市を出発して東へ進み、富士宮市まで3日間で22市町の26区間、54・5キロを走る。区間と区間の間は聖火をランタンに入れて車で移動する。1964年は旧湖西町(現湖西市)から東へ三島市までの114区間、185キロを3日かけてランナーが走り聖火を引き継いだ。

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