<戦火の記憶 東京大空襲75年 1945→2020> 現代っ子に伝わる博物館へ

2020年5月8日 02時00分

被災地図は2倍近い大きさになり、対象地区も広くなった=江東区で

 軍国主義ってどういう意味? 高射砲(こうしゃほう)って何? 戦後75年の現代を生きる子どもたちが口にした素朴な疑問をヒントに、東京大空襲・戦災資料センター(江東区)が大規模なリニューアルを進めている。戦争の体験者が減っていく中、これからのセンターに求められる役割とは-。
 開館から十五年以上がすぎ、展示内容を見直す時期を迎えていた。運営にかかわってきた三十~四十代の学芸員ら五人が中心となり、「活字離れが叫ばれる中、子どもたちに伝えるにはリアルな体験が欠かせない」と時代に合わせた展示内容を模索してきた。

■ピンとこない「学童疎開」

 その象徴が、精巧に作り直した焼夷(しょうい)弾の模型だ。これまでも実際に投下された焼夷弾を置いていたが、ずっしりとした重さ約二・七キロの筒を新たに並べ、燃料が入った状態の重さを体感できるようにした。担当した石橋星志さん(37)は「こんなに重いものが空から降ってきたんだと、手に取ることで想像が深まるだろう」と狙いを語る。
 展示物に添える解説文も中学生が分かるように練り直した。当たり前のように使ってきた用語でも今の子どもたちにはピンときていなかったからだ。学童疎開もその一つ。「学童疎開の狙いは~」と前置きなしで始まる解説文に、「学童疎開」の説明を書き加えた。

■体験者の語りを形に

 リニューアルは、戦争体験者がいなくなる時代も見据えている。センターの主任研究員で法政大准教授の山本唯人さん(47)は「死体が折り重なる写真は悲惨さを伝えてきたが、これは火が収まった夜明けの記録。東京大空襲の瞬間をとらえた写真は少なく、三月十日の未明に人々がどう逃げ惑ったかを知るには体験談を聞くしかすべがない」と指摘する。
 センターでは体験者の証言を直接聞くことができるが、それがかなわなくなる時に備えて、証言集を壁一面に展示した。「二、三十メートルの火ばしらが立ち、それが一度に倒れてくる」などの生々しい言葉が悲惨な光景を想像させる。一九七三年刊行の「東京大空襲・戦災誌」に収録された約百三十人分の体験記を読めるようにし、そのうち空襲時十一~五十歳だった十九人分をパネルにした。

■地元の子たちにも

 二〇一七年から四年がかりで進めてきたリニューアル事業は大詰めを迎えている。約四百点あった展示物を半分近くまで減らす一方、QRコードを読み込むことで、展示物のより詳しい情報をスマートフォンで読めるようにした。東京大空襲の被災状況を示す地図は縦二・二メートル、横三・四メートルと以前の倍近くの大きさになり、東は瑞江(江戸川区)、西は青山(港区)の仮埋葬地も含まれるまで対象エリアが広がった。
 入館者数は一四年度の一万四千八百三十八人をピークに、一八年度は九千九百三十三人まで減っている。中学生が最も多いが、実態は他県から来る修学旅行生が大半。そこで、センターがある北砂周辺の街並みを紹介する「砂町の暮らし」のコーナーを新設した。学芸員の比江島大和さん(37)は「地元の子どもたちにも東京の過去に目を向けてほしい」と話した。
 吉田裕館長(65)は若手がリニューアルを主導したことに「彼らは両親や教師が戦争を経験していない世代。体験を継承する意味では意義深い」と語った。
 再オープンは四月四日を予定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて延期された。再開時期の見通しは立っていない。
<東京大空襲・戦災資料センター> 10万人が亡くなったとされる1945年3月10日の東京大空襲を伝えていこうと2002年にオープンした。開館時に続き、今回のリニューアルでも区民らから多くの寄付が寄せられた。初代館長は作家の早乙女勝元さん。昨年6月に歴史学者で一橋大名誉教授の吉田裕さんが館長に就任した。
 文・加藤健太/写真・由木直子
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