伝馬町牢屋敷の絵図面 手に入れやした 中央区の郷土天文館

2020年4月16日 02時00分

伝馬町牢屋敷の建物を描いたとみられる絵図面。「大牢百姓牢共東之方妻絵図」と記載がある(中央区立郷土天文館所蔵)

 江戸時代、五街道の起点・日本橋の近くに、日本最大の牢獄(ろうごく)があった。吉田松陰、平賀源内、八百屋お七らが投獄された「伝馬町(てんまちょう)牢屋敷」。名前は有名だが、実はよく分かっていなかった建物の構造を記した絵図面が、見つかった。研究が進めば、時代劇でおなじみのシーンが修正を迫られるかもしれない。
 昼時に訪れた十思(じっし)公園(中央区日本橋小伝馬町)は、のどかな時間が流れていた。しかし、ふと視線を変えると、朱色で「江戸伝馬町処刑場跡」と刻まれた石碑が見えた。
 明治に入り、市谷に監獄ができるまで、一帯の八千六百平方メートルは塀が取り囲んでいた。公園の横、特別養護老人ホームが入る複合施設「十思スクエア別館」に置いてある牢屋敷の模型から分かる。
 旗本が入牢する「揚(あがり)座敷」、御家人や大名・旗本の家臣らの「揚屋」、町人を収容した「大牢(たいろう)」「二間(にけん)牢」。ほかにも「百姓牢」「女牢」。牢は厳格に身分で分けられていた。
 牢屋敷は現在で言えば、未決囚を収容する拘置所のようなもの。取り調べする「穿鑿(せんさく)所」や自白を引き出すための「拷問蔵」もあった。死罪が確定すると「首斬場」で処刑された。模型には、一つ一つの場所に説明書きがある。
 「よくできていますが、完全ではありません」。中央区郷土天文館の総括文化財調査指導員、仲光克顕さん(48)は言う。牢屋敷の平面図や、牢内の様子を記録した古文書が残っていることから、建物の配置はかなり分かっていたが、「細部や立体的な構造が分からなかった」という。
 二〇一二年と一六年の発掘調査では、敷地内から高さ一メートルほどの石垣が発見された。「高さ数メートルの練り塀を支えていた。伝馬町の囚人は思想犯が多かった。外部からの奪還に備え、防御の施設が必要だった」
 敷地を縦横に走る、木組みの上水道も出土した。一方で下水道の跡はない。代わりに、砂利を敷き詰めて水はけをよくしている場所があった。屋根から落ちる雨水を集めていたようだ。
 「このあたりは低地なので排水が難しい。下水が流れず『どぶ川』になり、蚊がわいてしまうのを防ぐために工夫したのでは」
 発掘調査で少しずつ解明されてきた牢屋敷だが、新たに計二十二点の絵図面が発見された。一昨年、古書店から購入した。どこの牢屋敷とは明記されていないが、仲光さんは建物の名称や規模から「ほぼ伝馬町の施設と思って間違いない」という。図面には建物や建具、部材などの構造の説明や寸法が記されている。これまでの調査と照らし合わせることで、建築の詳細が明らかになることが期待される。
 「入り口の引き戸は、いかにも堅固に見える。かんぬきもあり、格子の板も太い。ただ、隙間は、手がすり抜ける程度か。時代劇では囚人が格子から顔を出して話しているが、あんなことはできない」
 思われていたほど隙間が広くなかったとはいえ、戸が格子になっているのは衛生上の理由がある。閉鎖空間では感染症が怖い。「病気がまん延したら、奉行の責任問題になった。劣悪な環境が顧みられない、ということはなかった」。牢は人が密集する場所。江戸時代も換気には気を配っていたようだ。
 文・浅田晃弘/写真・由木直子
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