<1980年からの手紙 幻のモスクワ五輪代表>思い空回り 俺みたいになるなよ マラソン・瀬古利彦さん

2020年4月19日 02時00分

瀬古利彦さんの練習日誌。1980年5月24日、「19k(キロ)」走った後にボイコットを知った。翌日からも休まず練習を続けた

 1980年代、男子マラソンの瀬古利彦さん(63)は10戦8勝を誇り、間違いなく世界で一番強い時期があった。だが、3度代表に選ばれた五輪には「縁」がなかった。いま振り返れば、歯車が狂ったのが、80年モスクワ五輪だったという。悲劇のランナーが幻の五輪を振り返り、東京五輪を目指す選手に「俺みたいになるなよ」と呼び掛ける。 (森合正範)
 <80年5月24日。練習前、中村清監督から「きょう決まるから。練習が終わったら来いよ」と告げられた>
 監督の自宅に行ったら、玄関に記者の靴が約50足、ぐしゃぐしゃに置いてあったんです。それを見て「ああ、ボイコットだな」と感じました。
 悔しいとか、ショックはなくて、早くはっきりしてほしかった。練習も集中できず、ずっとモヤモヤした気持ちだったんです。予想はしていたし「よし、次の目標にいくぞ」と。別に泣くほどのことではなかったですね。
 <目標を欧州の1万メートル、12月の福岡国際マラソン、翌81年4月のボストン・マラソンの3レースに切り替える。福岡ではモスクワで五輪2連覇のチールピンスキー(当時・東ドイツ)と対決した>
 1万メートルで27分43秒44(当時の日本記録)を出して、次に福岡。特にチールピンスキーを意識していなかった。自分が勝つ、という気持ちだけ。優勝した瞬間、すぐにボストンのことを考えましたから。次も勝たないと三つの目標を達成できない、と。ボストンでは優勝候補のロジャース(米国のためモスクワ五輪不出場)に勝って、三つを完結。自分は絶対に世界で一番だなと確信しました。当時は負けるなんて頭の中にない。それくらい自信があったんです。

1980年12月の福岡国際マラソンを制し、モスクワ五輪で優勝したチールピンスキー(左)に「おまえが一番」と手を上げられる瀬古利彦さん=福岡市の平和台陸上競技場で

 <マラソン5連勝で84年ロサンゼルス五輪へ。だが、重圧がのしかかってくる>
 モスクワに出られなくて「絶対に金メダル」という思いが強すぎた。焦りにつながって(五輪までの過程で)頑張りすぎた。8年間の思いが一気にロスに向いて、いつもと違う自分のようでした。
 ロスがだめ(14位)だったでしょ。そしたらまた頑張っちゃう。五輪の間にピークが来て、直前に落ちて、ソウル五輪もだめ(9位)。その繰り返し。モスクワからボタンの掛け違いが始まって、ずっと続いちゃった。例えばモスクワで3番になっていたら心に余裕がある。もしモスクワがあればメダルを3個とっていたと思いますよ。いや、モスクワで金をとったら、もうやらなかったかもしれない。
 <モスクワの代表権を得た79年の福岡国際以降、11戦9勝。優勝を逃したのは、五輪の2大会だけだった。自らの経験を重ね、東京五輪へ挑む選手にエールを送る>
 昔は悔しくなかったけど、Qちゃん(高橋尚子=2000年シドニー五輪)、野口みずき(04年アテネ五輪)が金メダルをとって「俺もとれたよなあ」と、どんどん悔しくなってくる。時間がたつにつれ、悔しくなる。もう、思い出したくもない。
 僕の五輪は涙しかない。調子が上がらず、ロスの前はおふくろ(智子さん)に電話して泣いた。ソウルの前は布団の中で1カ月泣いてました。だから東京五輪の選手にね、俺みたいになるなよ、って。
 1年延びて準備できる時間ができたと思えば気が楽になる。来年五輪はあるわけだから、目標を決めて、スピードをつけるとか、もう1回どこでマラソンを走るとか、しっかり本番に合わせればいい。1年はあっという間ですよ。若い人たちがメダルをとれるように、私も全力でお手伝いをしたいと思います。
<せこ・としひこ> 早大卒。5000メートル、1万メートル、マラソンなどの元日本記録、2万5000メートル、3万メートルの元世界記録保持者。マラソンはボストン、ロンドン、シカゴなど海外でも優勝し、通算15戦10勝。現在は横浜DeNAランニングクラブのエグゼクティブアドバイザー、日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーを務める。三重県桑名市出身。

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