<1980年からの手紙 幻のモスクワ五輪代表>「五輪に1秒でも長く」力に レスリング・太田章さん 4度代表
2020年4月12日 02時00分
政治的な判断で出場がかなわなかった1980年モスクワ五輪の日本代表が、1年延期となった東京五輪を目指すアスリートに思いをつなぐ「1980年からの手紙」。レスリング男子の太田章さん(63)は、早大を留年してまでモスクワ出場に懸けていた。あのとき立てなかったマットへの渇望が、後に何度も五輪に挑戦する原動力となった。 (磯部旭弘)
<80年4月。フリースタイル82キロ級で五輪代表をつかみ取ったとき、大学生活は“5年目”に突入していた>
早大の入学時から、五輪に出るためだったら留年するつもりだった。教員を目指していて、もし勤めたとしたら1年目の時期。合宿で何度も抜けて、仕事をしないというのは無理な話でしょう。1年ぐらい遠回りしても全然大丈夫だと思っていたね。
<念願だった初の五輪は不参加に終わる。23歳。脂がのっていたころだった>
(ボイコットが決まった)5月24日は強化合宿中。コーチから「自宅で待機してくれ」と言われて、結局それから何もなくてね。モスクワ五輪の最中は練習もしていない。慰める意味で先輩が食事に誘ってくれて楽しい話をしていても、現実に戻されて、ボロボロと泣いた。立ち直るまで半年ぐらいかかったかな。
<階級を90キロ級に上げた84年ロサンゼルス五輪で銀メダル。重量級のメダリストは日本初だった>
それまでに5回出た世界選手権とはまるで違う。みんな興奮状態だった。ロスのときは優勝候補でも何でもないわけ。でも(モスクワを含めた)2回分の五輪を1回分しか味わえない人間のしぶとさがあったね。目標を問われても、メダルとは答えなかった。「1秒でも長くマットに立っていることです」と。それがモスクワの敵討ちになるだろうと思ったんだ。そうしたら本当に決勝まで行けた。
<ロス五輪は東側諸国がボイコット。そこに強豪の共産圏の選手はいなかった>
「だからメダルが取れた」とやゆされるようなことも言われた。いったんコーチとして数年指導したけど、世界では、僕と戦った人間がまだ現役を続けていた。あいつらみたいに自分で戦って喜びや悔しさを表すほうがいいと思い、カムバックを決めたんだ。
88年ソウル五輪では誰も予想していなかっただろうが、銀メダル。自分でも本物だと思えたね。92年バルセロナ五輪も出て、その次も出たいと、またカムバック。五輪にあこがれ、最初のはずだったモスクワに出られなかった。その経験がずっと五輪に挑戦した理由になったね。
<東京五輪が1年延期になった。翻弄(ほんろう)されながらも打ち込んだ自身の競技生活を重ね、今の選手に思いをはせる>
あのころは、時代が時代だった。冷戦の裏側でどれだけのスポーツ選手の人生設計や夢が砕かれたかは計りしれない。
東京五輪は終わったわけじゃない。慰めの言葉になるかもしれないが、2021年に照準を合わせて練習するしかない。でも、やれるだけうらやましい。モスクワの代表からしたらね。
<おおた・あきら> 早大卒、東海大大学院修了。中学までは柔道に励み、秋田商高でレスリングに転向。五輪は1984年ロサンゼルス、88年ソウルと2大会連続で銀メダル。92年バルセロナは3回戦敗退。39歳になる96年のアトランタを目指したが、前年の代表選考会を突破できず「5度目の五輪」はならなかった。早大教授。秋田市出身。
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