<1980年からの手紙 幻のモスクワ五輪代表>やっとれるか 切り替えて バレー女子・西川樹理さん

2020年4月3日 02時00分

モスクワ五輪の不参加が決まった翌日に行われた日ソ対抗バレー第1戦で勝利に貢献した横山樹理主将(4)=1980年5月25日、愛知県体育館で

 1980年モスクワ五輪で2連覇が期待されたバレーボール女子。主将だった西川樹理さん(65)=旧姓横山=は、「ここで引退を」と決めていた大会が“幻”となり、心を折られながらも翌年のワールドカップ(W杯)で銀メダル。来年に延期された東京五輪を集大成と定めるベテラン選手の心中に思いをはせる。 (兼村優希)
 <76年モントリオール五輪は控え選手。日本の優勝を見届け「私が取った金メダルじゃない」とコメントを残した>
 先輩たちに取ってもらった金メダルという感じ。五輪に行きたいと本気で思ったのは、モントリオールが終わった後ですね。やっぱり自分がコートの中で戦いたいって。4年後への気持ちはすごく大きかったね。連覇のかかる大会で、しかも前年のプレ五輪では私が主将で優勝。年齢もちょうどいいし、モスクワに行って、結果が良くても悪くてもそこで辞めようと決めていました。
 <日本が80年5月にモスクワ五輪不参加を決めても、一部は個別での参加を模索した。6月、国際オリンピック委員会は個別参加を認めないと決定。バレーボール女子は出場を信じて合宿に臨んでいた北海道で、その報を耳にした>
 小島孝治監督から「絶対行けるようになるから大丈夫や」って励まされ、それを信じて練習してたけん、涙の夕食会ですよ。ご飯を食べたかも覚えてない。心が折れました。合宿はそこで取りやめ。翌日は北海道を観光しました。もう、やっとれるか、と。出て負けたなら仕方ないけど、まさかそういう政治的な理由で行けないとは。

引退の場と決めたモスクワ五輪への出場がかなわなかった当時を振り返る西川樹理さん=福岡県中間市で

 <北九州市の実家で、数週間バレーボールから離れた>
 結果が出ないままバレーを辞めるのか。それとも続けるか。すぐには決められなかったね。もう25歳。当時の感覚では、さらに4年後のロサンゼルスなんて考えられない。代表で私と左右のエースだった2学年下の水原理枝子さんや同級生にとっては最初で最後の五輪になるはずだった。彼女たちは、もう出られない。それに比べたら、私は1回出てるけん、ましやったのかなあと思うようになって。
 あとは自分が納得できたら辞めようと。翌年のW杯は銀メダル。でも、大会前に足をけがしちゃって。このまま辞めるのは嫌だと思い、結局、82年の世界選手権まで続けました。4位でメダルは取れなかったけど、自分はやりきった。もう十分、満足でした。
 モスクワに行けなかったのは悔しいし、忘れられない。ただ、あそこで辞めてたら、もっと後悔があったと思うね。40年たった今、良いバレー人生だったと思えますよ。
 <東京五輪にも、あの頃の自分と同じ、ここを節目に定める選手たちがいる>
 中止にならなかっただけ、本当に良かった。若手は「切り替えてやります」って言える人もいるけど、ここを最後に終わる人もいるわけじゃない。切り替えるのは大変だと思うよ。でもスポーツ選手やけん、1年後ならなんとか踏ん張れるんじゃないかと。何十年も前の選手がえらそうなことは言えないけど、陰ながら応援していますよ。
<にしかわ・じゅり> 1973年にユニチカに入社し、18歳で日本代表デビュー。74年世界選手権、76年モントリオール五輪、77年W杯で金メダル。エースアタッカーとして臨んだ78年世界選手権、81年W杯は銀。プレー中の笑顔は「ジュリ・スマイル」と呼ばれた。北九州市出身。

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