<1980年からの手紙 幻のモスクワ五輪代表>失意糧に五輪選手育てる フェンシング男子・千田健一さん

2020年4月4日 02時00分

1979年にオーストラリア・メルボルンで行われた世界選手権でイタリア選手と対戦する千田健一さん(左)

 1980年モスクワ五輪の「幻の日本代表」の中には、そこで競技人生に区切りを付けた人もいる。フェンシング男子の千田健一さん(63)も、その一人。教師として、指導者として歩んだ第二の人生。悔しさをばねに、新たなオリンピアンを育てた。 (中川耕平)
 <モスクワ五輪のボイコットが伝えられたのは、本番を見据えた茨城県高萩市での強化合宿の最中だった>
 代表を決める三つの選考会の総合ポイントでは私が一番。出場は間違いなかったが、ずっと不安な気持ちを抱えていた。ボイコットするという連絡を受け、(日本代表は)すぐに解散に。当時は宇都宮市の高校で商業を教えていましたが、いざ帰っても仕事がない。私がずっといないので、非常勤講師を雇っていたんですよ。毎日職員室でお茶飲んで新聞読んで、それしか仕事がない。本当に毎日針のむしろのように座っていましたね。肩身の狭い思いをしながら、23歳にして窓際族だった。

モスクワ五輪を見据えたドイツ・ボンでの強化合宿で他の代表選手らと記念写真に納まる千田さん(右から2人目、(上)(中)は本人提供)

 <翌年、次のロサンゼルス五輪への思いを断ち切り、もう一つの夢だった故郷で教師になる道を選択。宮城県気仙沼市に戻り、鼎(かなえ)が浦高(統合で現気仙沼高)フェンシング部を5度の全国制覇に導く>
 ロスまで待っていると、採用試験の年齢制限を超えてしまう。現役を続けるのも、頑張ったとしてもロスまでの4年だろうと。それならば、教員としてやっていく人生の方が長いと考えた。
 指導者として頑張っていこうと気持ちは切り替えたつもりなんですけどね。でも、ロスの代表が自分の後輩や同級生で、昔は実力的には私の方が上だというプライドもありました。かたや自分は初心者を一から教えているわけですよ。果たして自分のステージはここなのか、これでいいのかなという思いはあった。
 <高校の教え子の菅原智恵子がアテネ、北京、ロンドンに出場。長男の健太はロンドン五輪でフルーレ団体銀メダルを獲得した>
 自分が出られなかった悔しさが指導者としての原動力、起爆剤になり、五輪選手を何とか輩出したいという思いに変えていった。アテネで五輪を初めて生で観戦し、すごいなあと実感した。ロンドンでは本当に息子に感謝しています。目の前で日本選手がメダルをかけている姿は想像がつかなかったですからね。本当にフェンシングのおかげでいい人生を送れているなと思いますよ。

日本オリンピック委員会から贈られたモスクワ五輪代表の証書を手に、当時を振り返る千田さん=宮城県気仙沼市で

 <先延ばしになった東京五輪。アスリートの底力を信じている>
 後ろを振り向いても結局変わらないわけですからね。みんな、いろいろな挫折を経てきているわけですよ。けがやスランプ、修羅場やつらい時期を乗り越えて今の地位がある。これまでも前向きに頑張ってきたでしょうから。なかなかしんどいとは思う。だけど、競技力を向上するチャンスが増えたと捉えて、いい準備期間にしてほしい。
<ちだ・けんいち> 小学5年で競技を始め、宮城県気仙沼高校時代には全国高校総体のフルーレで団体2度、個人は1度優勝した。引退後は高校で指導する一方、日本フェンシング協会強化委員などを歴任し、現在は気仙沼市体育協会事務局長。中大卒。東京五輪の聖火ランナーに選ばれている。

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