<1980年からの手紙 幻のモスクワ五輪代表>「金」の夢今も。悔い残さぬよう 柔道・柏崎克彦さん

2020年4月2日 02時00分
 東西冷戦下の1980年モスクワ五輪。日本代表は政治的な判断で出場がかなわなかった。夢が絶たれた選手は何を考え、次の目標へと向かっていったのか。1年延期となった東京五輪を目指す選手へ思いをつなぐ新企画「1980年からの手紙」。第1回は柔道65キロ級代表の柏崎克彦さん(68)。当時の思いと1年3カ月先の世界選手権へと切り替えた心情を語る。 (森合正範)
 <1980年5月24日。モスクワ五輪代表を決める最終選考会を翌日に控え、早めに布団に入っていた>
 新聞記者からホテルの部屋に電話があったんだよ。「柏崎さん、日本のボイコットが決まったよ。どう思うの?」って。「何もないよ。電話しないで」と言って切ったんだ。試合前日だもん。まだ代表に決まっていないんだから。
 <翌25日。選考会で優勝。当時28歳。最初で最後の五輪代表に選出された>
 そこで初めてボイコットを悔しがる権利、悲しむ権利をもらったんだ。自分が当事者になって、ボイコットに腹を立てて、泣く権利だよ。でも不思議と涙も出なかったな。
 4年前のモントリオール五輪は補欠だった。「よし、4年後に」と思って、4年計画でやってきた。選手によって、五輪出場が目標の人、メダルの人、金を取りにいく人がいる。オレは金を取る自信があった。同じ階級の海外勢に負けたことはなかったから。
 「幻の五輪選手」と書かれる。でも「幻の金メダリスト」と書いてほしいと思っていた。むろん、勝負はやってみないと分からない。でも、そういう思いはあったよね。

1981年の柔道世界選手権65キロ級決勝戦で、ルーマニア選手を破り、両手を挙げて喜ぶ柏崎克彦さん=UPI・共同

 <81年9月、世界選手権でオール一本勝ち。一つもポイントを与えず優勝した>
 ボイコットが決まって、1年3カ月ほど先の世界選手権にピークを持っていくように練習計画を立て直したんだ。いかに有意義な時間にするか。もっといいパフォーマンスをするチャンスをもらった、と思うようにしてね。意外と1年はあっという間だったな。まあ、意地だよね。圧倒的な優勝でも、心が晴れたとはならなかったんだよな…。
 <東京五輪が1年延期となった。選手の心中を察し、エールを送る>
 応援してくれる人の顔を思い浮かべたり、過去の悔しさでもいい。課題の克服、新しい技術を増やすのもいい。モチベーションになっていることを維持していけばいい。五輪に行くくらいの選手はものすごくメンタルが強いんだ。同じ人間じゃないんだよ(笑い)。だから大丈夫。1年なら、どうにかなると思うんだ。
 <あれから40年。今になって思うことがある>
 勝負はね、勝った試合は次の日に忘れる。ところが負けた試合はずっと覚えているんだ。日ごとに悔しさが増してくる。モスクワなんて、何年もたっているし「もういいよ」と思う。思い出すこともない。でもね、今でも夢に見るんだ。失ったものって、時がたてばたつほどね。自分でも分からない潜在的な意識の中に「あのとき出ていれば」という気持ちがあるのかな。
 今、頑張っている選手に対して「頑張れ」とは言いづらい。だから、悔いの残らないように。1年を有意義に過ごしてもらいたいんだよね。

日本オリンピック委員会から送られてきたモスクワ五輪日本代表の証書。「1980年7月」と記されている

<かしわざき・かつひこ> 「寝技の柏崎」の異名を持つ。東海大卒。茨城・多賀高で教諭を務めた。世界選手権は75年銀メダル、81年金メダル。全日本選抜体重別選手権は5度優勝、82年嘉納杯を制し、引退。国際武道大で指導し、現在は同大の名誉教授。岩手県久慈市出身。
<モスクワ五輪> 1980年7月19日~8月3日に開催。21競技203種目が行われ、80の国・地域から5179選手が出場した。ソビエト連邦による79年12月のアフガニスタン侵攻に対し、冷戦で対立する米国がボイコットを主張。多くの国が追随した。
 日本では日本オリンピック委員会(JOC)が一度は従来通りの派遣方針を決めたが、80年5月24日に日本体育協会(現日本スポーツ協会)が緊急理事会でエントリー提出反対を決議。同日、JOC臨時総会でも挙手による投票を行い、不参加を決めた。JOCは6月に日本選手団の全面不参加を確定させたが、178選手(日本スポーツ学会調べ、馬術の候補選手含む)を代表として承認した。

関連キーワード

PR情報

1964年からの手紙の新着

記事一覧